とこ》の間《ま》にかけてある軸物《じくもの》も反《そ》っくり返っていた。
「なに日が射すためじゃない。年《ねん》が年中《ねんじゅう》かけ通しだから、糊《のり》の具合でああなるんです」と岡田は真面目《まじめ》に弁解した。
「なるほど梅《うめ》に鶯《うぐいす》だ」と自分も云いたくなった。彼は世帯を持つ時の用意に、この幅《ふく》を自分の父から貰《もら》って、大得意で自分の室《へや》へ持って来て見せたのである。その時自分は「岡田君この呉春《ごしゅん》は偽物《ぎぶつ》だよ。それだからあの親父《おやじ》が君にくれたんだ」と云って調戯《からかい》半分岡田を怒らした事を覚えていた。
 二人は懸物《かけもの》を見て、当時を思い出しながら子供らしく笑った。岡田はいつまでも窓に腰をかけて話を続ける風に見えた。自分も襯衣《シャツ》に洋袴《ズボン》だけになってそこに寝転《ねころ》びながら相手になった。そうして彼から天下茶屋《てんがちゃや》の形勢だの、将来の発展だの、電車の便利だのを聞かされた。自分は自分にそれほど興味のない問題を、ただ素直にはいはいと聴《き》いていたが、電車の通じる所へわざわざ俥《くるま》へ乗って来た事だけは、馬鹿らしいと思った。二人はまた二階を下りた。
 やがて細君が帰って来た。細君はお兼《かね》さんと云って、器量《きりょう》はそれほどでもないが、色の白い、皮膚の滑《なめ》らかな、遠見《とおみ》の大変好い女であった。父が勤めていたある官省の属官の娘で、その頃は時々勝手口から頼まれものの仕立物などを持って出入《でいり》をしていた。岡田はまたその時分自分の家の食客《しょっかく》をして、勝手口に近い書生部屋で、勉強もし昼寝《ひるね》もし、時には焼芋《やきいも》なども食った。彼らはかようにして互に顔を知り合ったのである。が、顔を知り合ってから、結婚が成立するまでに、どんな径路《けいろ》を通って来たか自分はよく知らない。岡田は母の遠縁に当る男だけれども、自分の宅《うち》では書生同様にしていたから、下女達は自分や自分の兄には遠慮して云い兼ねる事までも、岡田に対してはつけつけと云って退《の》けた。「岡田さんお兼さんがよろしく」などという言葉は、自分も時々耳にした。けれども岡田はいっこう気にもとめない様子だったから、おおかたただの徒事《いたずら》だろうと思っていた。すると岡田は高商を卒業し
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