て一人で大阪のある保険会社へ行ってしまった。地位は自分の父が周旋《しゅうせん》したのだそうである。それから一年ほどして彼はまた飄然《ひょうぜん》として上京した。そうして今度はお兼さんの手を引いて大阪へ下《くだ》って行った。これも自分の父と母が口を利《き》いて、話を纏《まと》めてやったのだそうである。自分はその時富士へ登って甲州路を歩く考えで家にはいなかったが、後でその話を聞いてちょっと驚いた。勘定して見ると、自分が御殿場で下りた汽車と擦《す》れ違って、岡田は新しい細君を迎えるために入京したのである。
お兼さんは格子《こうし》の前で畳んだ洋傘《こうもり》を、小さい包と一緒に、脇《わき》の下に抱《かか》えながら玄関から勝手の方に通り抜ける時、ちょっときまりの悪そうな顔をした。その顔は日盛《ひざかり》の中を歩いた火気《ほてり》のため、汗を帯びて赤くなっていた。
「おい御客さまだよ」と岡田が遠慮のない大きな声を出した時、お兼さんは「ただいま」と奥の方で優《やさ》しく答えた。自分はこの声の持主に、かつて着た久留米絣《くるめがすり》やフランネルの襦袢《じゅばん》を縫って貰った事もあるのだなとふと懐《なつ》かしい記憶を喚起《よびおこ》した。
三
お兼《かね》さんの態度は明瞭《めいりょう》で落ちついて、どこにも下卑《げび》た家庭に育ったという面影《おもかげ》は見えなかった。「二三日前《にさんちまえ》からもうおいでだろうと思って、心待《こころまち》に御待申しておりました」などと云って、眼の縁《ふち》に愛嬌《あいきょう》を漂《ただ》よわせるところなどは、自分の妹よりも品《ひん》の良《い》いばかりでなく、様子も幾分か立優《たちまさ》って見えた。自分はしばらくお兼さんと話しているうちに、これなら岡田がわざわざ東京まで出て来て連れて行ってもしかるべきだという気になった。
この若い細君がまだ娘盛《むすめざかり》の五六年|前《ぜん》に、自分はすでにその声も眼鼻立《めはなだち》も知っていたのではあるが、それほど親しく言葉を換《か》わす機会もなかったので、こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴々《なれなれ》しい応対もできなかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対するごとく、畏《かしこ》まった言語をぽつぽつ使った。岡田はそれがおかしいのか、または嬉《う
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