った。始めから囚《とら》われない自由な女であった。彼女の今までの行動は何物にも拘泥《こうでい》しない天真の発現に過ぎなかった。
ある時はまた彼女がすべてを胸のうちに畳み込んで、容易に己を露出しないいわゆるしっかりもののごとく自分の眼に映じた。そうした意味から見ると、彼女はありふれたしっかりものの域《いき》を遥《はるか》に通り越していた。あの落ちつき、あの品位、あの寡黙《かもく》、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々《ずうずう》しいものでもあった。
ある刹那《せつな》には彼女は忍耐の権化《ごんげ》のごとく、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕迹《こんせき》さえ認められない気高《けだか》さが潜《ひそ》んでいた。彼女は眉《まゆ》をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代りに端然《たんぜん》と坐った。あたかもその坐っている席の下からわが足の腐れるのを待つかのごとくに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、ほとんど彼女の自然に近いある物であった。
一人の嫂《あによめ》が自分にはこういろいろに見えた。事務所の机の前、昼餐《ひるめし》の卓《たく》の上、帰《かえ》り途《みち》の電車の中、下宿の火鉢の周囲《まわり》、さまざまの所でさまざまに変って見えた。自分は他《ひと》の知らない苦しみを他に言わずに苦しんだ。その間思い切って番町へ出かけて行って、大体の様子を探るのがともかくも順序だとはしばしば胸に浮かんだ。けれども卑怯《ひきょう》な自分はそれをあえてする勇気をもたなかった。眼の前に怖《こわ》い物のあるのを知りながら、わざと見ないために瞼《まぶた》を閉じていた。
すると五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電話口まで呼び出された。
「御前は二郎かい」
「そうです」
「明日《あす》の朝ちょっと行くが好いかい」
「へえ」
「差支《さしつか》えがあるかい」
「いえ別に……」
「じゃ待っててくれ、好《い》いだろうね。さようなら」
父はそれで電話を切ってしまった。自分は少からず狼狽《ろうばい》した。何の用事であるかをさえ確める余裕をもたなかった自分は、電話口を離れてから後悔した。もし用事があるなら呼びつけられそうなものだのにとすぐ変に思っても見た。父が向うから来るという違例な事が、この間の嫂の訪問に何か関係があるような気がして、自分の胸は一
前へ
次へ
全260ページ中189ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング