葉の寡《すく》ない嫂が自分にだけそれを話し出したのだろうか。彼女は平生から落ちついている。今夜も平生の通り落ちついていた。彼女は昂奮《こうふん》の極《きょく》訴える所がないので、わざわざ自分を訪《と》うたものとは思えなかった。だいち訴えという言葉からしてが彼女の態度には不似合であった。結果から云えば、自分は先刻《さっき》云った通りむしろ彼女から焦慮《じら》されたのであるから。
彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「なぜそう堅苦《かたくる》しくしていらっしゃるの」と聞いた。自分が「別段堅苦しくはしていません」と答えた時、彼女は「だって反《そ》っ繰《く》り返《かえ》ってるじゃありませんか」と笑った。その時の彼女の態度は、細い人指《ひとさし》ゆびで火鉢の向側から自分の頬《ほっ》ぺたでも突っつきそうに狎《な》れ狎れしかった。彼女はまた自分の名を呼んで、「吃驚《びっくり》したでしょう」と云った。突然雨の降る寒い晩に来て、自分を驚かしてやったのが、さも愉快な悪戯《いたずら》ででもあるかのごとくに云った。……
自分の想像と記憶は、ぽたりぽたりと垂れる雨滴《あまだれ》の拍子《ひょうし》のうちに、それからそれからととめどもなく深更まで廻転した。
六
それから三四日《さんよっか》の間というもの自分の頭は絶えず嫂の幽霊に追い廻された。事務所の机の前に立って肝心《かんじん》の図を引く時ですら、自分はこの祟《たたり》を払い退《の》ける手段を知らなかった。ある日には始終《しじゅう》他人の手を借りて仕事を運んで行くようなはがゆい思さえ加わった。こうして自分で自分を離れた気分を持ちながら、上部《うわべ》だけを人並にやって行くのに傍《はた》の者はなぜ不審がらないのだろうと疑ぐって見たりした。自分はよほど前から事務所ではもう快活な男として通用しないようになっていた。ことに近来は口数さえ碌《ろく》に利《き》かなかった。それでこの三四日間に起った変化もまた他《ひと》の注意に上《のぼ》らずに済んでいるのだろうと考えた。そうして自己と周囲と全く遮断《しゃだん》された人の淋《さび》しさを独《ひと》り感じた。
自分はこの間に一人の嫂をいろいろに視た。――彼女は男子さえ超越する事のできないあるものを嫁に来たその日からすでに超越していた。あるいは彼女には始めから超越すべき牆《かき》も壁もなか
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