対して怒《おこ》り得るほどの勇気を持っていなかった。怒り得るならば、この間|罵《のの》しられて彼の書斎を出るとき、すでに激昂《げっこう》していなければならなかった。自分は後《うしろ》から小さな石膏像《せっこうぞう》の飛んでくるぐらいに恐れを抱く人間ではなかった。けれどもあの時に限って、怒るべき勇気の源がすでに枯れていたような気がする。自分は室に入《い》った幽霊が、ふうとまた室を出るごとくに力なく退却した。その後も彼の書斎の扉《ドア》を叩《たた》いて、快く詫《あや》まるだけの度胸は、どこからも出て来なかった。かくして自分は毎日|苦《にが》い顔をしている彼の顔を、晩餐《ばんさん》の食卓に見るだけであった。
嫂《あによめ》とも自分は近頃|滅多《めった》に口を利《き》かなかった。近頃というよりもむしろ大阪から帰って後《のち》という方が適当かも知れない。彼女は単独に自分の箪笥《たんす》などを置いた小《ち》さい部屋の所有主であった。しかしながら彼女と芳江が二人ぎりそこに遊んでいる事は、一日中で時間につもるといくらもなかった。彼女はたいてい母と共に裁縫その他の手伝をして日を暮していた。
父や母に自分の未来を打ち明けた明《あく》る朝、便所から風呂場へ通う縁側《えんがわ》で、自分はこの嫂にぱたりと出会った。
「二郎さん、あなた下宿なさるんですってね。宅《うち》が厭《いや》なの」と彼女は突然聞いた。彼女は自分の云った通りを、いつの間にか母から伝えられたらしい言葉遣《ことばづかい》をした。自分は何気なく「ええしばらく出る事にしました」と答えた。
「その方が面倒でなくって好いでしょう」
彼女は自分が何か云うかと思って、じっと自分の顔を見ていた。しかし自分は何とも云わなかった。
「そうして早く奥さんをお貰いなさい」と彼女の方からまた云った。自分はそれでも黙っていた。
「早い方が好いわよあなた。妾《あたし》探して上げましょうか」とまた聞いた。
「どうぞ願います」と自分は始めて口を開いた。
嫂は自分を見下《みさ》げたようなまた自分を調戯《からか》うような薄笑いを薄い唇《くちびる》の両端に見せつつ、わざと足音を高くして、茶の間の方へ去った。
自分は黙って、風呂場と便所の境にある三和土《たたき》の隅《すみ》に寄せ掛けられた大きな銅の金盥《かなだらい》を見つめた。この金盥は直径二尺以上もあっ
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