て自分の力で持上げるのも困難なくらい、重くてかつ大きなものであった。自分は子供の時分からこの金盥を見て、きっと大人《おとな》の行水《ぎょうずい》を使うものだとばかり想像して、一人|嬉《うれ》しがっていた。金盥は今|塵《ちり》で佗《わび》しく汚れていた。低い硝子戸越《ガラスどご》しには、これも自分の子供時代から忘れ得ない秋海棠《しゅうかいどう》が、変らぬ年ごとの色を淋《さみ》しく見せていた。自分はこれらの前に立って、よく秋先《あきさき》に玄関前の棗《なつめ》を、兄と共に叩《たた》き落して食った事を思い出した。自分はまだ青年だけれども、自分の背後にはすでにこれだけ無邪気な過去がずっと続いている事を発見した時、今昔の比較が自《おのず》から胸に溢《あふ》れた。そうしてこれからこの餓鬼大将《がきだいしょう》であった兄と不愉快な言葉を交換して、わが家を出なければならないという変化に想《おも》い及んだ。
二十六
その日自分が事務所から帰ってお重に「兄さんは」と聞くと、「まだよ」という返事を得た。
「今日はどこかへ廻る日なのかね」と重《かさ》ねて尋ねた時、お重は「どうだか知らないわ。書斎へ行って壁に貼《は》りつけてある時間表を見て来て上げましょうか」と云った。
自分はただ兄が帰ったら教えてくれるように頼んで、誰にも会わずに室《へや》へ這入《はい》った。洋服を脱《ぬ》ぎ替えるのも面倒なので、そのまま横になって寝ているうち、いつの間にか本当の眠りに落ちた。そうして他人に説明も何もできないような複雑に変化する不安な夢に襲われていると、急にお重から起された。
「大兄《おおにい》さんがお帰りよ」
こういう彼女の言葉が耳に這入った時、自分はすぐ起ち上がった。けれども意識は朦朧《もうろう》として、夢のつづきを歩いていた。お重は後《うしろ》から「まあ顔でも洗っていらっしゃい」と注意した。判然《はっきり》しない自分の意識は、それすらあえてする勇気を必要と感ぜしめなかった。
自分はそのまま兄の書斎に這入った。兄もまだ洋服のままであった。彼は扉《ドア》の音を聞いて、急に入口に眼を転じた。その光のうちにはある予期を明かに示していた。彼が外出して帰ると、嫂《あによめ》が芳江を連れて、不断の和服を持って上がって来るのが、その頃の習慣であった。自分は母が嫂に「こういう風におしよ」と云
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