へ行こうとした。母は急に後から呼び留めた。
「二郎たとい、お前が家《うち》を出たってね……」
 母の言葉はそれだけで支《つか》えてしまった。自分は「何ですか」と聞き返したため、元の場所に立っていなければならなかった。
「兄さんにはもう御話しかい」と母は急に即《つ》かぬ事を云い出した。
「いいえ」と自分は答えた。
「兄さんにはかえってお前から直下《じか》に話した方が好いかも知れないよ。なまじ、御父さんや御母さんから取次ぐと、かえって感情を害するかも知れないからね」
「ええ僕もそう思っています。なるたけ綺麗《きれい》にして出るつもりですから」
 自分はこう断って、すぐ父の居間に這入《はい》った。父は長い手紙を書いていた。
「大阪の岡田からお貞の結婚について、この間また問い合せが来たので、その返事を書こう書こうと思いながら、とうとう今日まで放っておいたから、今日は是非一つその義務を果そうと思って、今書いているところだ。ついでだからそう云っとくが、御前の書く拝啓の啓の字は間違っている。崩《くず》すならそこにあるように崩すものだ」
 長い手紙の一端がちょうど自分の坐った膝《ひざ》の前に出ていた。自分は啓の字を横に見たが、どこが間違っているのかまるで解らなかった。自分は父が筆を動かす間、床《とこ》に活けた黄菊だのその後《うしろ》にある懸物《かけもの》だのを心のうちで品評していた。

        二十五

 父は長い手紙を裾《すそ》の方から巻き返しながら、「何か用かね、また金じゃないか。金ならないよ」と云って、封筒に上書《うわがき》を認《したた》めた。
 自分はきわめて簡略に自分の決意を述べた上、「永々御厄介になりましたが……」というような形式の言葉をちょっと後《あと》へ付け加えた。父はただ「うんそうか」と答えた。やがて切手を状袋の角《かど》へ貼《は》り付けて、「ちょっとそのベルを押してくれ」と自分に頼んだ。自分は「僕が出させましょう」と云って手紙を受け取った。父は「お前の下宿の番地を書いて、御母さんに渡しておきな」と注意した。それから床の幅《ふく》についていろいろな説明をした。
 自分はそれだけ聞いて父の室《へや》を出た。これで挨拶《あいさつ》の残っているものはいよいよ兄と嫂《あによめ》だけになった。兄にはこの間の事件以来ほとんど親しい言葉を換《か》わさなかった。自分は彼に
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