分は時々こう考えて、早く家《うち》を出てしまおうと決心した事もあった。あまり食卓の空気が冷やかな折は、お重が自分の後を恋《した》って、追いかけるように、自分の室へ這入《はい》って来た。彼女は何にも云わずにそこで泣き出したりした。ある時はなぜ兄さんに早く詫《あや》まらないのだと詰問するように自分を悪《にく》らしそうに睨《にら》めたりした。
自分は宅《うち》にいるのがいよいよ厭《いや》になった。元来|性急《せっかち》のくせに決断に乏しい自分だけれども、今度こそは下宿なり間借りなりして、当分気を抜こうと思い定《さだ》めた。自分は三沢の所へ相談に行った。その時自分は彼に、「君が大阪などで、ああ長く煩《わずら》うから悪いんだ」と云った。彼は「君がお直《なお》さんなどの傍《そば》に長くくっついているから悪いんだ」と答えた。
自分は上方《かみがた》から帰って以来、彼に会う機会は何度となくあったが、嫂《あによめ》については、いまだかつて一言も彼に告げた例《ためし》がなかった。彼もまた自分の嫂に関しては、いっさい口を閉じて何事をも云わなかった。
自分は始めて彼の咽喉《のど》を洩《も》れる嫂の名を聞いた。またその嫂と自分との間に横《よこた》わる、深くも浅くも取れる相互関係をあらわした彼の言葉を聞いた。そうして驚きと疑《うたがい》の眼を三沢の上に注《そそ》いだ。その中に怒《いかり》を含んでいると解釈した彼は、「怒《おこ》るなよ」と云った。その後《あと》で「気狂《きちがい》になった女に、しかも死んだ女に惚《ほ》れられたと思って、己惚《おのぼ》れているおれの方が、まあ安全だろう。その代り心細いには違ない。しかし面倒は起らないから、いくら惚れても、惚れられてもいっこう差支《さしつか》えない」と云った。自分は黙っていた。彼は笑いながら「どうだ」と自分の肩を捕《つか》まえて小突いた。自分には彼の態度が真面目《まじめ》なのか、また冗談なのか、少しも解らなかった。真面目にせよ、冗談にせよ、自分は彼に向って何事をも説明したり、弁明したりする気は起らなかった。
自分はそれでも三沢に適当な宿を一二軒教わって、帰りがけに、自分の室《へや》まで見て帰った。家《うち》へ戻るや否や誰より先に、まずお重を呼んで、「兄さんもお前の忠告してくれた通り、いよいよ家を出る事にした」と告げた。お重は案外なようなまた予期
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