の馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。その声はおそらく下まで聞えたろうが、すぐ傍《そば》に坐っている自分には、ほとんど予想外の驚きを心臓に打ち込んだ。
「お前はお父さんの子だけあって、世渡りはおれより旨《うま》いかも知れないが、士人の交わりはできない男だ。なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。軽薄児《けいはくじ》め」
 自分の腰は思わず坐っている椅子《いす》からふらりと離れた。自分はそのまま扉《ドア》の方へ歩いて行った。
「お父さんのような虚偽な自白を聞いた後《あと》、何で貴様の報告なんか宛《あて》にするものか」
 自分はこういう烈《はげ》しい言葉を背中に受けつつ扉《ドア》を閉めて、暗い階段の上に出た。

        二十三

 自分はそれから約一週間ほどというもの、夕食以外には兄と顔を合した事がなかった。平生食卓を賑《にぎ》やかにする義務をもっているとまで、皆《みん》なから思われていた自分が、急に黙ってしまったので、テーブルは変に淋《さみ》しくなった。どこかで鳴く※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》の音《ね》さえ、併《なら》んでいる人の耳に肌寒《はださむ》の象徴《シンボル》のごとく響いた。
 こういう寂寞《せきばく》たる団欒《だんらん》の中に、お貞さんは日ごとに近づいて来る我結婚の日限《にちげん》を考えるよりほかに、何の天地もないごとくに、盆を膝《ひざ》の上へ載《の》せて御給仕をしていた。陽気な父は周囲に頓着《とんじゃく》なく、己《おの》れに特有な勝手な話ばかりした。しかしその反響はいつものようにどこからも起らなかった。父の方でもまるでそれを予期する気色《けしき》は見えなかった。
 時々席に列《つらな》ったものが、一度に声を出して笑う種になったのはただ芳江ばかりであった。母などは話が途切《とぎ》れておのずと不安になるたびに、「芳江お前は……」とか何とか無理に問題を拵《こしら》えて、一時を糊塗《こと》するのを例にした。するとそのわざとらしさが、すぐ兄の神経に触った。
 自分は食卓を退《しりぞ》いて自分の室《へや》に帰るたびに、ほっと一息吐《ひといきつ》くように煙草《たばこ》を呑んだ。
「つまらない。一面識《いちめんしき》のないものが寄って会食するよりなおつまらない。他《ひと》の家庭もみんなこんな不愉快なものかしら」
 自
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