。お前は正直なお父さんの血を受けているから、信用ができる、だからこんな事を打ち明けて頼むんだって」
 自分がこう云うと、今度は兄の方がぐっと行きつまったような形迹《けいせき》を見せた。自分はここだと思って、わざと普通以上の力を、言葉の裡《うち》へ籠《こ》めながらこう云った。
「そりゃ御約束した事ですから、嫂《ねえ》さんについて、あの時の一部始終《いちぶしじゅう》を今ここで御話してもいっこう差支《さしつか》えありません。固《もと》より僕はあまり下らない事だから、機会が来なければ口を開く考えもなし、また口を開いたって、ただ一言《いちごん》で済んでしまう事だから、兄さんが気にかけない以上、何も云う必要を認めないので、今日《こんにち》まで控えていたんですから。――しかし是非何とか報告をしろと、官命で出張した属官流に逼《せま》られれば、仕方がない。今|即刻《すぐ》でも僕の見た通りをお話します。けれどもあらかじめ断っておきますが、僕の報告から、あなたの予期しているような変な幻《まぼろし》はけっして出て来ませんよ。元々あなたの頭にある幻なんで、客観的にはどこにも存在していないんだから」
 兄は自分の言葉を聞いた時、平生と違って、顔の筋肉をほとんど一つも動かさなかった。ただ洋卓《テーブル》の前に肱《ひじ》を突いたなり、じっとしていた。眼さえ伏せていたから、自分には彼の表情がちっとも解らなかった。兄は理に明らかなようで、またその理にころりと抛《な》げられる癖があった。自分はただ彼の顔色が少し蒼《あお》くなったのを見て、これは必竟《ひっきょう》彼が自分の強い言語に叩《たた》かれたのだと判断した。
 自分はそこにあった巻莨入《まきたばこいれ》から煙草《たばこ》を一本取り出して燐寸《マッチ》の火を擦《す》った。そうして自分の鼻から出る青い煙と兄の顔とを等分に眺めていた。
「二郎」と兄がようやく云った。その声には力も張《はり》もなかった。
「何です」と自分は答えた。自分の声はむしろ驕《おご》っていた。
「もうおれはお前に直《なお》の事について何も聞かないよ」
「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と自分は嫂《あによめ》を弁護するように、また兄を戒めるように云った。
「こ
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