親からさえも、日に日に離れて行くのを眼前に見て、思わず顔を下げて自分の膝頭《ひざがしら》を見つめた。
「二郎お前もやっぱりお父さん流だよ。少しも摯実《しじつ》の気質がない」と兄が云った。
自分は癇癪《かんしゃく》の不意に起る野蛮な気質を兄と同様に持っていたが、この場合兄の言葉を聞いたとき、毫《ごう》も憤怒の念が萌《きざ》さなかった。
「そりゃひどい。僕はとにかく、お父さんまで世間の軽薄ものといっしょに見做《みな》すのは。兄さんは独《ひと》りぼっちで書斎にばかり籠《こも》っているから、それでそういう僻《ひが》んだ観察ばかりなさるんですよ」
「じゃ例を挙《あ》げて見せようか」
兄の眼は急に光を放った。自分は思わず口を閉じた。
「この間|謡《うたい》の客のあった時に、盲女《めくらおんな》の話をお父さんがしたろう。あのときお父さんは何とかいう人を立派に代表して行きながら、その女が二十何年も解らずに煩悶《はんもん》していた事を、ただ一口にごまかしている。おれはあの時、その女のために腹の中で泣いた。女は知らない女だからそれほど同情は起らなかったけれども、実をいうとお父さんの軽薄なのに泣いたのだ。本当に情ないと思った。……」
「そう女みたように解釈すれば、何だって軽薄に見えるでしょうけれども……」
「そんな事を云うところが、つまりお父さんの悪いところを受け継《つ》いでいる証拠《しょうこ》になるだけさ。おれは直《なお》の事をお前に頼んで、その報告をいつまでも待っていた。ところがお前はいつまでも言葉を左右に託して、空恍《そらとぼ》けている……」
二十二
「空恍けてると云われちゃちっと可哀《かわい》そうですね。話す機会もなし、また話す必要がないんですもの」
「機会は毎日ある。必要はお前になくてもおれの方にあるから、わざわざ頼んだのだ」
自分はその時ぐっと行きつまった。実はあの事件以後、嫂《あによめ》について兄の前へ一人出て、真面目に彼女を論ずるのがいかにも苦痛だったのである。自分は話頭を無理に横へ向けようとした。
「兄さんはすでにお父さんを信用なさらず。僕もそのお父さんの子だという訳で、信用なさらないようだが、和歌の浦でおっしゃった事とはまるで矛盾していますね」
「何が」と兄は少し怒気を帯びて反問した。
「何がって、あの時、あなたはおっしゃったじゃありませんか
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