二十一
その折自分は何を話ていたか今たしかに覚えていない。何でも兄から玉突《たまつき》の歴史を聞いた上、ルイ十四世頃の銅版の玉突台をわざわざ見せられたような気がする。
兄の室《へや》へ這入っては、こんな問題を種に、彼の新しく得た知識を、はいはい聞いているのが一番安全であった。もっとも自分も御饒舌《おしゃべり》だから、兄と違った方面で、ルネサンスとかゴシックとかいう言葉を心得顔にふり廻す事も多かった。しかしたいていは世間離れのしたこう云う談話だけで書斎を出るのが例であったが、その折は何かの拍子《ひょうし》で兄の得意とする遺伝とか進化とかについての学説が、銅版の後で出て来た。自分は多分云う事がないため、黙って聞いていたものと見える。その時兄が「二郎お前はお父さんの子だね」と突然云った。自分はそれがどうしたと云わぬばかりの顔をして、「そうです」と答えた。
「おれはお前だから話すが、実はうちのお父さんには、一種妙におっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]のところがあるじゃないか」
兄から父を評すれば正にそうであるという事を自分は以前から呑込《のみこ》んでいた。けれども兄に対してこの場合何と挨拶《あいさつ》すべきものか自分には解らなかった。
「そりゃあなたのいう遺伝とか性質とかいうものじゃおそらくないでしょう。今の日本の社会があれでなくっちゃ、通させないから、やむをえないのじゃないですか。世の中にゃお父さんどころかまだまだたまらないおっちょこ[#「おっちょこ」に傍点]がありますよ。兄さんは書斎と学校で高尚に日を暮しているから解らないかも知れないけれども」
「そりゃおれも知ってる。お前の云う通りだ。今の日本の社会は――ことによったら西洋もそうかも知れないけれども――皆《みん》な上滑《うわすべ》りの御上手ものだけが存在し得るように出来上がっているんだから仕方がない」
兄はこう云ってしばらく沈黙の裡《うち》に頭を埋《うず》めていた。それから怠《だる》そうな眼を上げた。
「しかし二郎、お父さんのは、お気の毒だけれども、持って生れた性質なんだよ。どんな社会に生きていても、ああよりほかに存在の仕方はお父さんに取ってむずかしいんだね」
自分はこの学問をして、高尚になり、かつ迂濶《うかつ》になり過ぎた兄が、家中《うちじゅう》から変人扱いにされるのみならず、親身の
前へ
次へ
全260ページ中150ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング