まど》ぐらいは、現在の収入でどうかこうか維持して行かれる地位なのだから、かねてから、そういう考えはちらちらと無頓着《むとんじゃく》な自分の頭をさえ横切ったのである。
自分は母に対して、「ええ外へ出る事なんか訳はありません。明日《あした》からでも出ろとおっしゃれば出ます。しかし嫁の方はそうちんころ[#「ちんころ」に傍点]のように、何でも構わないから、ただ路に落ちてさえいれば拾って来るというような遣口《やりくち》じゃ僕には不向《ふむき》ですから」と云った。その時母は、「そりゃ無論……」と答えようとするのを自分はわざと遮《さえぎ》った。
「御母さんの前ですが、兄さんと姉さんの間ですね。あれにはいろいろ複雑な事情もあり、また僕が固《もと》から少し姉さんと知り合だったので、御母さんにも御心配をかけてすまないようですけれども、大根《おおね》をいうとね。兄さんが学問以外の事に時間を費《ついや》すのが惜《おし》いんで、万事|人任《ひとまか》せにしておいて、何事にも手を出さずに華族然と澄ましていたのが悪いんですよ。いくら研究の時間が大切だって、学校の講義が大事だって、一生同じ所で同じ生活をしなくっちゃならない吾《わ》が妻じゃありませんか。兄さんに云わしたらまた学者相応の意見もありましょうけれども学者以下の我々にはとてもあんな真似はできませんからね」
自分がこんな下らない理窟《りくつ》を云い募《つの》っているうちに、母の眼にはいつの間にか涙らしい光の影が、だんだん溜《たま》って来たので、自分は驚いてやめてしまった。
自分は面《つら》の皮が厚いというのか、遠慮がなさ過ぎると云うのか、それほど宅《うち》のものが気兼《きがね》をして、云わば敬して遠ざけているような兄の書斎の扉《ドア》を他《ひと》よりもしばしば叩《たた》いて話をした。中へ這入《はい》った当分の感じは、さすがの自分にも少し応《こた》えた。けれども十分ぐらい経《た》つと彼はまるで別人のように快活になった。自分は苦《にが》い兄の心機をこう一転させる自分の手際《てぎわ》に重きをおいて、あたかも己《おの》れの虚栄心を満足させるための手段らしい態度をもって、わざわざ彼の書斎へ出入《でいり》した事さえあった。自白すると、突然兄から捕《つら》まって危く死地に陥《おとしい》れられそうになったのも、実はこういう得意の瞬間であった。
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