いろいろに光沢《つや》をつけたり、出鱈目《でたらめ》を拵《こしら》えたりして、とうとう女を納得させちまったんですが、ずいぶん骨が折れましたよ」と少し得意気であった。
やがて客は謡本を風呂敷に包んで露《つゆ》に濡《ぬ》れた門を潜《くぐ》って出た。皆《みん》な後《あと》で世間話をしているなかに、兄だけはむずかしい顔をして一人書斎に入った。自分は例のごとく冷《ひやや》かに重い音をさせる上草履《スリッパー》の音を一つずつ聞いて、最後にどんと締まる扉《ドア》の響に耳を傾けた。
二十
二三週間はそれなり過ぎた。そのうち秋がだんだん深くなった。葉鶏頭《はげいとう》の濃い色が庭を覗《のぞ》くたびに自分の眼に映った。
兄は俥《くるま》で学校へ出た。学校から帰るとたいていは書斎へ這入《はい》って何かしていた。家族のものでも滅多《めった》に顔を合わす機会はなかった。用があるとこっちから二階に上《のぼ》って、わざわざ扉を開けるのが常になっていた。兄はいつでも大きな書物の上に眼を向けていた。それでなければ何か万年筆で細かい字を書いていた。一番我々の眼についたのは、彼の茫然《ぼうぜん》として洋机《テーブル》の上に頬杖《ほおづえ》を突いている時であった。
彼は一心に何か考えているらしかった。彼は学者でかつ思索家であるから、黙って考えるのは当然の事のようにも思われたが、扉を開けてその様子を見た者は、いかにも寒い気がすると云って、用を済ますのを待ち兼ねて外へ出た。最も関係の深い母ですら、書斎へ行くのをあまりありがたいとは思っていなかったらしい。
「二郎、学者ってものは皆《みん》なあんな偏屈《へんくつ》なものかね」
この問を聞いた時、自分は学者でないのを不思議な幸福のように感じた。それでただえへへと笑っていた。すると母は真面目《まじめ》な顔をして、「二郎、御前がいなくなると、宅《うち》は淋《さむ》しい上にも淋しくなるが、早く好い御嫁さんでも貰って別になる工面《くめん》を御為《おし》よ」と云った。自分には母の言葉の裏に、自分さえ新しい家庭を作って独立すれば、兄の機嫌《きげん》が少しはよくなるだろうという意味が明らさまに読まれた。自分は今でも兄がそんな妙な事を考えているのだろうかと疑《うたぐ》っても見た。しかし自分もすでに一家を成してしかるべき年輩だし、また小さい一軒の竈《か
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