からこう云われた時は、どんな凄《すさ》まじい文句を並べられるかと思って、少からず心配したそうである。
「幸い相手の眼が見えないので、自分の周章《あわて》さ加減を覚《さと》られずにすんだ」と彼はことさらにつけ加えた。その時女はこう云ったそうである。
「私は御覧の通り眼を煩《わずら》って以来、色という色は皆目《かいもく》見えません。世の中で一番明るい御天道様《おてんとさま》さえもう拝む事はできなくなりました。ちょっと表へ出るにも娘の厄介《やっかい》にならなければ用事は足せません。いくら年を取っても一人で不自由なく歩く事のできる人間が幾人《いくたり》あるかと思うと、何の因果《いんが》でこんな業病《ごうびょう》に罹《かか》ったのかと、つくづく辛い心持が致します。けれどもこの眼は潰《つぶ》れてもさほど苦しいとは存じません。ただ両方の眼が満足に開いている癖に、他《ひと》の料簡方《りょうけんがた》が解らないのが一番苦しゅうございます」
 父は「なるほど」と答えた。「ごもっとも」とも答えた。けれども女のいう意味はいっこう通じなかった。彼にはそういう経験がまるでなかったと彼は明言した。女は瞹眛《あいまい》な父の言葉を聞いて、「ねえあなたそうではございませんか」と念を押した。
「そりゃそんな場合は無論有るでしょう」と父が云った。
「有るでしょうでは、あなたもわざわざ○○さんに御頼まれになって、ここまでいらしって下すった甲斐《かい》がないではございませんか」と女が云った。父はますます窮した。
 自分はこの時偶然兄の顔を見た。そうして彼の神経的に緊張した眼の色と、少し冷笑を洩《も》らしているような嫂《あによめ》の唇《くちびる》との対照を比較して、突然彼らの間にこの間から蟠《わだか》まっている妙な関係に気がついた。その蟠まりの中に、自分も引きずり込まれているという、一種|厭《いと》うべき空気の匂《にお》いも容赦なく自分の鼻を衝《つ》いた。自分は父がなぜ座興とは云いながら、択《よ》りに択って、こんな話をするのだろうと、ようやく不安の念が起った。けれども万事はすでに遅かった。父は知らぬ顔をして勝手次第に話頭を進めて行った。
「おれはそれでも解らないから、淡泊《たんぱく》にその女に聞いて見た。せっかく○○に頼まれてわざわざここまで来て、肝心《かんじん》な要領を伺わないで引き取っては、あなたに対して
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