ているらしかった。娘の方は下町風の育て方で、唄《うた》や三味線の稽古《けいこ》を専一と心得させるように見えた。すべてを通じて○○とは遠い過去に焼きつけられた一点の記憶以外に何ものをも共通にもっているとは思えなかった。
父が有楽座の話をした時に、女は両方の眼をうるませて、「本当に盲目ほど気の毒なものはございませんね」と云ったのが、痛く父の胸には応《こた》えたそうである。
「○○さんは今何をしておいででございますか」と女はまた空中に何物をか想像するがごとき眼遣《めづかい》をして父に聞いた。父は残りなく○○が学校を出てから以後の経歴を話して聞かせた後、「今じゃなかなか偉くなっていますよ。私見たいな老朽とは違ってね」と答えた。
女は父の返事には耳も借さずに、「定めてお立派な奥さんをお貰いになったでございましょうね」とおとなしやかに聞いた。
「ええもう子供が四人《よつたり》あります」
「一番お上のはいくつにお成りで」
「さようさもう十二三にも成りましょうか。可愛《かわい》らしい女の子ですよ」
女は黙ったなりしきりに指を折って何か勘定《かんじょう》し始めた。その指を眺めていた父は、急に恐ろしくなった。そうして腹の中で余計な事を云って、もう取り返しがつかないと思った。
女はしばらく間をおいて、ただ「結構でございます」と一口云って後は淋《さび》しく笑った。しかしその笑い方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも変な感じを与えたと云った。
父は○○の宿所を明らさまに告げて、「ちと暇な時に遊びがてら御嬢さんでも連れて行って御覧なさい。ちょっと好い家《うち》ですよ。○○も夜ならたいてい御目にかかれると云っていましたから」と云った。すると女はたちまち眉《まゆ》を曇らして、「そんな立派な御屋敷へ我々|風情《ふぜい》がとても御出入《おでいり》はできませんが」と云ったまましばらく考えていたが、たちまち抑え切れないように真剣な声を出して、「御出入は致しません。先様《さきさま》で来いとおっしゃってもこっちで御遠慮しなければなりません。しかしただ一つ一生の御願に伺っておきたい事がございます。こうして御目にかかれるのももう二度とない御縁だろうと思いますから、どうぞそれだけ聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます」と云った。
十八
父は年の割に度胸の悪い男なので、女
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