ゃなかろうかと思ってね。本当は感心しましたよ。どういう訳で景清を思い出したかと云うとね。ただ双方とも盲目《めくら》だからと云うばかりじゃない。どうもその女の態度がね……」
 父は考えていた。父の筋向うに坐《すわ》っていた赭顔《あからがお》の客が、「全く気込《きごみ》が似ているからですね」とさもむずかしい謎《なぞ》でも解くように云った。
「全く気込です」と父はすぐ承服した。自分はこれで父の話が結末に来たのかと思って、「なるほどそれは面白い御話です」と全体を批評するような調子で云った。すると父は「まだ後《あと》があるんだ。後の方がまだ面白い。ことに二郎のような若い者が聞くと」とつけ加えた。

        十七

 父は意外な女の見識に、話の腰を折られて、やむをえず席を立とうとした。すると女は始めて女らしい表情を面《おもて》に湛《たた》えて、縋《すが》りつくように父をとめた。そうしていつ何日《いつか》どこで○○が自分を見たのかと聞いた。父は例の有楽座の事を包み蔵《かく》さず盲人《もうじん》に話して聞かせた。
「ちょうどあなたの隣に腰をかけていたんだそうです。あなたの方ではまるで知らなかったでしょうが、○○は最初から気がついていたのです。しかし細君や娘の手前、口を利《き》く事もでき悪《にく》かったんでしょう。それなり宅《うち》へ帰ったと云っていました」
 父はその時始めて盲目《めくら》の涙腺《るいせん》から流れ出る涙を見た。
「失礼ながら眼を御煩《おわずら》いになったのはよほど以前の事なんですか」と聞いた。
「こういう不自由な身体《からだ》になってから、もう六年ほどにもなりましょうか。夫が亡《な》くなって一年|経《た》つか経たないうちの事でございます。生《うま》れつきの盲目と違って、当座は大変不自由を致しました」
 父は慰めようもなかった。彼女のいわゆる夫というのは何でも、請負師《うけおいし》か何かで、存生中《ぞんしょうちゅう》にだいぶ金を使った代りに、相応の資産も残して行ったらしかった。彼女はその御蔭《おかげ》で眼を煩った今日《こんにち》でも、立派に独立して暮して行けるのだろうと父は説明した。
 彼女は人に誇ってしかるべき倅《せがれ》と娘を持っていた。その倅には高等の教育こそ施してないようだったけれども、何でも銀座辺のある商会へ這入《はい》って独立し得るだけの収入を得
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