はもちろん○○から云っても定めし不本意だろうから、どうかあなたの胸を存分私に打明けて下さいませんか。それでないと私も帰ってから○○に話がし悪《にく》いからって」
その時女は始めて思い切った決断の色を面《おもて》に見せて、「では申し上げます。あなたも○○さんの代理にわざわざ尋ねて来て下さるくらいでいらっしゃるから、定めし関係の深い御方には違いございませんでしょう」という冒頭《まえおき》をおいて、彼女の腹を父に打明けた。
○○が結婚の約束をしながら一週間|経《た》つか経たないのに、それを取り消す気になったのは、周囲の事情から圧迫を受けてやむをえず断ったのか、あるいは別に何か気に入らないところでもできて、その気に入らないところを、結婚の約束後急に見つけたため断ったのか、その有体《ありてい》の本当が聞きたいのだと云うのが、女の何より知りたいところであった。
女は二十年以上○○の胸の底に隠れているこの秘密を掘り出したくってたまらなかったのである。彼女には天下の人がことごとく持っている二つの眼を失って、ほとんど他《ひと》から片輪《かたわ》扱いにされるよりも、いったん契《ちぎ》った人の心を確実に手に握れない方が遥《はる》かに苦痛なのであった。
「御父さんはどういう返事をしておやりでしたか」とその時兄が突然聞いた。その顔には普通の興味というよりも、異状の同情が籠《こも》っているらしかった。
「おれも仕方がないから、そりゃ大丈夫、僕が受け合う。本人に軽薄なところはちっともないと答えた」と父は好い加減な答えをかえって自慢らしく兄に話した。
十九
「女はそんな事で満足したんですか」と兄が聞いた。自分から見ると、兄のこの問には冒《おか》すべからざる強味が籠《こも》っていた。それが一種の念力《ねんりき》のように自分には響いた。
父は気がついたのか、気がつかなかったのか、平気でこんな答をした。
「始《はじめ》は満足しかねた様子だった。もちろんこっちの云う事がそらそれほど根のある訳でもないんだからね。本当を云えば、先刻《さっき》お前達に話した通り男の方はまるで坊ちゃんなんで、前後の分別も何もないんだから、真面目《まじめ》な挨拶《あいさつ》はとてもできないのさ。けれどもそいつがいったん女と関係した後で止せば好かったと後悔したのは、どうも事実に違なかろうよ」
兄は苦々し
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