とよく調和した。
彼らは二人とも袴《はかま》のまま、羽織を脱ぎ放しにしていた。三人のうちで袴を着けていなかったのは父ばかりであったが、その父でさえ羽織だけは遠慮していた。
自分は見知り合だから正面の客に挨拶《あいさつ》かたがた、「どうか拝聴を……」と頭を下げた。客はちょっと恐縮の体《てい》を装《よそお》って、「いやどうも……」と頭を掻《か》く真似をした。父は自分にまたお重の事を尋ねたので、「先刻《さっき》から少し頭痛がするそうで、御挨拶《ごあいさつ》に出られないのを残念がっていました」と答えた。父は客の方を見ながら、「お重が心持が悪いなんて、まるで鬼の霍乱《かくらん》だな」と云って、今度は自分に、「先刻|綱《つな》(母の名)の話では腹が痛いように聞いたがそうじゃない頭痛なのかい」と聞き直した。自分はしまったと思ったが「多分両方なんでしょう。胃腸の熱で頭が痛む事もあるようだから。しかし心配するほどの病気じゃないようです。じき癒《なお》るでしょう」と答えた。客は蒼蠅《うるさ》いほどお重に同情の言葉を注射した後《あと》、「じゃ残念だが始めましょうか」と云い出した。
聴手《ききて》には、自分より前に兄夫婦が横向になって、行儀よく併《なら》んで坐《すわ》っていたので、自分は鹿爪《しかつめ》らしく嫂《あによめ》の次に席を取った。「何をやるんです」と坐りながら聞いたら、この道について何の素養も趣味もない嫂は、「何でも景清《かげきよ》だそうです」と答えて、それぎり何とも云わなかった。
客のうちで赭顔《あからがお》の恰腹《かっぷく》の好い男が仕手《して》をやる事になって、その隣の貴族院議員が脇《わき》、父は主人役で「娘」と「男」を端役《はやく》だと云う訳か二つ引き受けた。多少謡を聞分ける耳を持っていた自分は、最初からどんな景清ができるかと心配した。兄は何を考えているのか、はなはだ要領を得ない顔をして、凋落《ちょうらく》しかかった前世紀の肉声を夢のように聞いていた。嫂の鼓膜《こまく》には肝腎《かんじん》の「松門《しょうもん》」さえ人間としてよりもむしろ獣類の吠《うなり》として不快に響いたらしい。自分はかねてからこの「景清」という謡《うたい》に興味を持っていた。何だか勇ましいような惨《いた》ましいような一種の気分が、盲目《もうもく》の景清の強い言葉遣《ことばづかい》から、また遥々
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