すると予定の通り謡が始まった。自分はやがてまたお重が呼び出される事と思って、調戯《からかい》半分茶の間の方に出て行った。お重は一生懸命に会席膳《かいせきぜん》を拭いていた。
「今日はポンポン鳴らさないのか」と自分がことさらに聞くと、お重は妙にとぼけた顔をして、立っている自分を見上げた。
「だって今御膳が出るんですもの。忙しいからって、断ったのよ」
 自分は台所や茶の間のごたごたした中で、ふざけ過ぎて母に叱られるのも面白くないと思って、また室《へや》へ取って返した。
 夕食後ちょっと散歩に出て帰って来ると、まだ自分の室《へや》に這入《はい》らない先から母に捉《つら》まった。
「二郎ちょうど好いところへ帰って来ておくれだ。奥へ行って御父さんの謡《うたい》を聞いていらっしゃい」
 自分は父の謡を聞き慣れているので、一番ぐらい聴くのはさほど厭とも思わなかった。
「何をやるんです」と母に質問した。母は自分とは正反対に謡がまた大嫌《だいきら》いだった。「何だか知らないがね。早くいらっしゃいよ。皆さんが待っていらっしゃるんだから」と云った。
 自分は委細承知して奥へ通ろうとした。すると暗い縁側《えんがわ》の所にお重がそっと立っていた。自分は思わず「おい……」と大きな声を出しかけた。お重は急に手を振って相図のように自分の口を塞《ふさ》いでしまった。
「なぜそんな暗い所に一人で立っているんだい」と自分は彼女の耳へ口を付けて聞いた。彼女はすぐ「なぜでも」と答えた。しかし自分がその返事に満足しないでやはり元の所に立っているのを見て、「先刻《さっき》から、何遍も出て来い出て来いって催促するのよ。だから御母さんに断って、少し加減が悪い事にしてあるのよ」
「なぜまた今日に限って、そんなに遠慮するんだい」
「だって妾《あたし》鼓《つづみ》なんか打つのはもう厭《いや》になっちまったんですもの、馬鹿らしくって。それにこれからやるのなんかむずかしくってとてもできないんですもの」
「感心にお前みたような女でも謙遜《けんそん》の道は少々心得ているから偉いね」と云い放ったまま、自分は奥へ通った。

        十二

 奥には例の客が二人|床《とこ》の前に坐《すわ》っていた。二人とも品の好い容貌《ようぼう》の人で、その薄く禿げかかった頭が後《うしろ》にかかっている探幽《たんゆう》の三幅対《さんぷくつい》
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