しない。厭に嫂《ねえ》さんの肩ばかり持って……」
「お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」
「当前《あたりまえ》ですわ。大兄《おおにい》さんの妹ですもの」
九
自分は三沢へ端書《はがき》を書いた後《あと》で、風呂から出立《でたて》の頬に髪剃《かみそり》をあてようと思っていた。お重を相手にぐずぐずいうのが面倒になったのを好い幸いに、「お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか」と頼んだ。お重は嗽茶碗《うがいぢゃわん》どころの騒ぎではないらしかった。それよりまだ十倍も厳粛な人生問題を考えているもののごとく澄まして膨《ふく》れていた。自分はお重に構わず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰った。それから机の上へ旅行用の鏡を立てて、象牙《ぞうげ》の柄《え》のついた髪剃《かみそり》を並べて、熱湯で濡《ぬ》らした頬をわざと滑稽《こっけい》に膨《ふく》らませた。
自分が物新しそうにシェーヴィング・ブラッシを振り廻して、石鹸《シャボン》の泡で顔中を真白にしていると、先刻《さっき》から傍《そば》に坐ってこの様子を見ていたお重は、ワッと云う悲劇的な声をふり上げて泣き出した。自分はお重の性質として、早晩ここに来るだろうと思って、暗《あん》にこの悲鳴を予期していたのである。そこでますます頬《ほっ》ぺたに空気をいっぱい入れて、白い石鹸をすうすうと髪剃の刃で心持よさそうに落し始めた。お重はそれを見て業腹《ごうはら》だか何だかますます騒々しい声を立てた。しまいに「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。自分はお重を馬鹿にしていたには違ないが、この鋭い声には少し驚かされた。
「何だ」
「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私はあなたの妹です。嫂《ねえ》さんはいくらあなたが贔屓《ひいき》にしたって、もともと他人じゃありませんか」
自分は髪剃を下へ置いて、石鹸だらけの頬をお重の方に向けた。
「お重お前は逆《のぼ》せているよ。お前がおれの妹で、嫂さんが他家《よそ》から嫁に来た女だぐらいは、お前に教わらないでも知ってるさ」
「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたような方《かた》をお貰《もら》いなすったら好いじゃありませんか」
自分は平手《ひらて》でお重の頭を一つ張りつけてやりたかった。けれども家中騒ぎ廻られ
前へ
次へ
全260ページ中130ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング