るのが怖《こわ》いんで、容易に手は出せなかった。
「じゃお前も早く兄さんみたような学者を探《さが》して嫁に行ったら好かろう」
 お重はこの言葉を聞くや否や、急に掴《つか》みかかりかねまじき凄《すさま》じい勢いを示した。そうして涙の途切《とぎ》れ目途切れ目に、彼女の結婚がお貞さんより後《おく》れたので、それでこんなに愚弄《ぐろう》されるのだと言明した末、自分を兄妹に同情のない野蛮人だと評した。自分も固《もと》より彼女の相手になり得るほどの悪口家《わるくちや》であった。けれども最後にとうとう根気負《こんきまけ》がして黙ってしまった。それでも彼女は自分の傍《そば》を去らなかった。そうして事実は無論の事、事実が生んだ飛んでもない想像まで縦横に喋舌《しゃべ》り廻してやまなかった。その中《うち》で彼女の最も得意とする主題は、何でもかでも自分と嫂《あによめ》とを結びつけて当て擦《こす》るという悪い意地であった。自分はそれが何より厭《いや》であった。自分はその時心の中《うち》で、どんなお多福でも構わないから、お重より早く結婚して、この夫婦関係がどうだの、男女《なんにょ》の愛がどうだのと囀《さえず》る女を、たった一人|後《あと》に取り残してやりたい気がした。それからその方がまた実際母の心配する通り、兄夫婦にも都合が好かろうと真面目《まじめ》に考えても見た。
 自分は今でも雨に叩《たた》かれたようなお重の仏頂面《ぶっちょうづら》を覚えている。お重はまた石鹸を溶いた金盥《かなだらい》の中に顔を突込んだとしか思われない自分の異《い》な顔を、どうしても忘れ得ないそうである。

        十

 お重は明らかに嫂《あによめ》を嫌っていた。これは学究的に孤独な兄に同情が強いためと誰にも肯《うな》ずかれた。
「御母さんでもいなくなったらどうなさるでしょう。本当に御気の毒ね」
 すべてを隠す事を知らない彼女はかつて自分にこう云った。これは固《もと》より頬《ほっ》ぺたを真白にして自分が彼女と喧嘩《けんか》をしない遠い前の事であった。自分はその時彼女を相手にしなかった。ただ「兄さん見たいに訳の解った人が、家庭間の関係で、御前などに心配して貰う必要が出て来るものか、黙って見ていらっしゃい。御父さんも御母さんもついていらっしゃるんだから」と訓戒でも与えるように云って聞かせた。
 自分はその時分からお重
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