えて好いか見当《けんとう》がつかなかった。ただ問題が例の嫂事件を再発《さいほつ》させては大変だと考えた。それで卑怯《ひきょう》のようではあるが、問答がそこへ流れ入る事を故意に防いだ。
「兄さんが考え過ぎるから、自分でそう思うんですよ。それよりかこの好天気を利用して、今度の日曜ぐらいに、どこかへ遠足でもしようじゃありませんか」
 兄はかすかに「うん」と云って慵《ものう》げに承諾の意を示した。

        六

 兄の顔には孤独の淋《さみ》しみが広い額を伝わって瘠《こ》けた頬に漲《みなぎ》っていた。
「二郎おれは昔から自然が好きだが、つまり人間と合わないので、やむをえず自然の方に心を移す訳になるんだろうかな」
 自分は兄が気の毒になった。「そんな事はないでしょう」と一口に打ち消して見た。けれどもそれで兄の満足を買う訳には行かなかった。自分はすかさずまたこう云った。
「やっぱり家《うち》の血統にそう云う傾きがあるんですよ。御父さんは無論、僕でも兄さんの知っていらっしゃる通りですし、それにね、あのお重がまた不思議と、花や木が好きで、今じゃ山水画などを見ると感に堪《た》えたような顔をして時々眺めている事がありますよ」
 自分はなるべく兄を慰めようとして、いろいろな話をしていた。そこへお貞さんが下から夕食の報知《しらせ》に来た。自分は彼女に、「お貞さんは近頃|嬉《うれ》しいと見えて妙ににこにこしていますね」と云った。自分が大阪から帰るや否や、お貞さんは暑い下女室《げじょべや》の隅《すみ》に引込んで容易に顔を出さなかった。それが大阪から出したみんなの合併《がっぺい》絵葉書《えはがき》の中《うち》へ、自分がお貞さん宛《あて》に「おめでとう」と書いた五字から起ったのだと知れて家内中大笑いをした。そのためか一つ家にいながらお貞さんは変に自分を回避した。したがって顔を合わせると自分はことさらに何か云いたくなった。
「お貞さん何が嬉《うれ》しいんですか」と自分は面白半分追窮するように聞いた。お貞さんは手を突いたなり耳まで赤くなった。兄は籐椅子《といす》の上からお貞さんを見て、「お貞さん、結婚の話で顔を赤くするうちが女の花だよ。行って見るとね、結婚は顔を赤くするほど嬉しいものでもなければ、恥ずかしいものでもないよ。それどころか、結婚をして一人の人間が二人になると、一人でいた時よりも人間
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