の品格が堕落する場合が多い。恐ろしい目に会う事さえある。まあ用心が肝心《かんじん》だ」と云った。
 お貞さんには兄の意味が全く通じなかったらしい。何と答えて好いか解らないので、むしろ途方《とほう》に暮れた顔をしながら涙を眼にいっぱい溜《た》めていた。兄はそれを見て、「お貞さん余計な事を話して御気の毒だったね。今のは冗談だよ。二郎のような向う見ずに云って聞かせる事を、ついお貞さん見たいな優《やさ》しい娘さんに云っちまったんだ。全くの間違だ。勘弁《かんべん》してくれたまえ。今夜は御馳走《ごちそう》があるかね。二郎それじゃ御膳《ごぜん》を食べに行こう」と云った。
 お貞さんは兄が籐椅子から立ち上るのを見るや否や、すぐ腰を立てて一足先へ階子段《はしごだん》をとんとんと下りて行った。自分は兄と肩を比《なら》べて室《へや》を出にかかった。その時兄は自分を顧みて「二郎、この間の問題もそれぎりになっていたね。つい書物や講義の事が忙《いそが》しいものだから、聞こう聞こうと思いながら、ついそのままにしておいてすまない。そのうちゆっくり聴《き》くつもりだから、どうか話してくれ」と云った。自分は「この間の問題とは何ですか」と空惚《そらとぼ》けたかった。けれどもそんな勇気はこの際出る余裕がなかったから、まず体裁の好い挨拶《あいさつ》だけをしておいた。
「こう時間が経《た》つと、何だか気の抜けた麦酒《ビール》見たようで、僕には話し悪《にく》くなってしまいましたよ。しかしせっかくのお約束だから聴《き》くとおっしゃればやらん事もありませんがね。しかし兄さんのいわゆる生き甲斐《がい》のある秋にもなったものだから、そんなつまらない事より、まず第一に遠足でもしようじゃありませんか」
「うん遠足も好かろうが……」
 二人はこんな話を交換しながら、食卓の据《す》えてある下の室《へや》に入った。そうしてそこに芳江を傍《そば》に引きつけている嫂《あによめ》を見出した。

        七

 食卓の上で父と母は偶然またお貞さんの結婚問題を話頭に上《のぼ》せた。母は兼《かね》て白縮緬《しろちりめん》を織屋から買っておいたから、それを紋付《もんつき》に染めようと思っているなどと云った。お貞さんはその時みんなの後《うしろ》に坐《すわ》って給仕をしていたが、急に黒塗の盆をおはち[#「はち」に傍点]の上へ置いたなり席を
前へ 次へ
全260ページ中126ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング