。
「芳江は下にいるかい」
「いるでしょう。先刻《さっき》裏庭で見たようでした」
自分は北の方の窓を開けて下を覗《のぞ》いて見た。下には特に彼女のために植木屋が拵《こしら》えたブランコがあった。しかし先刻いた芳江の姿は見えなかった。「おやどこへか行ったかな」と自分が独言《ひとりごと》を云ってると、彼女の鋭い笑い声が風呂場の中で聞えた。
「ああ湯に這入《はい》っています」
「直《なお》といっしょかい。御母さんとかい」
芳江の笑い声の間にはたしかに、女として深さのあり過ぎる嫂《あによめ》の声が聞えた。
「姉さんです」と自分は答えた。
「だいぶ機嫌《きげん》が好さそうじゃないか」
自分は思わずこう云った兄の顔を見た。彼は手に持っていた大きな書物で頭まで隠していたからこの言葉を発した時の表情は少しも見る事ができなかった。けれども、彼の意味はその調子で自分によく呑《の》み込めた。自分は少し逡巡《しゅんじゅん》した後《あと》で、「兄さんは子供をあやす事を知らないから」と云った。兄の顔はそれでも書物の後《うしろ》に隠れていた。それを急に取るや否や彼は「おれの綾成《あや》す事のできないのは子供ばかりじゃないよ」と云った。自分は黙って彼の顔を打ち守った。
「おれは自分の子供を綾成す事ができないばかりじゃない。自分の父や母でさえ綾成す技巧を持っていない。それどころか肝心《かんじん》のわが妻《さい》さえどうしたら綾成せるかいまだに分別がつかないんだ。この年になるまで学問をした御蔭《おかげ》で、そんな技巧は覚える余暇《ひま》がなかった。二郎、ある技巧は、人生を幸福にするために、どうしても必要と見えるね」
「でも立派な講義さえできりゃ、それですべてを償《つぐな》って余《あまり》あるから好いでさあ」
自分はこう云って、様子次第、退却しようとした。ところが兄は中止する気色《けしき》を見せなかった。
「おれは講義を作るためばかりに生れた人間じゃない。しかし講義を作ったり書物を読んだりする必要があるために肝心《かんじん》の人間らしい心持を人間らしく満足させる事ができなくなってしまったのだ。でなければ先方《さき》で満足させてくれる事ができなくなったのだ」
自分は兄の言葉の裏に、彼の周囲を呪《のろ》うように苦々《にがにが》しいある物を発見した。自分は何とか答えなければならなかった。しかし何と答
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