すると例のお重とお貞さんが父を弁護した。
「そうじゃ無いのよ。あんまり手数《てすう》がかかるんで、御父さんも根気が尽きちまったのよ。それでも御父さんだからあれだけにできたんですって、皆《みん》な賞《ほ》めていらしったわ」
母と嫂《あによめ》は自分の顔を見て、さも自分の無識を嘲《あざ》けるように笑い出した。すると傍《そば》にいた小さな芳江までが嫂と同じように意味のある笑い方をした。
こんな瑣事《さじ》で日を暮しているうちに兄と嫂の間柄は自然自分達の胸を離れるようになった。自分はかねて約束した通り、兄の前へ出て嫂の事を説明する必要がなくなったような気がした。母が東京へ帰ってからゆっくり話そうと云ったむずかしそうな事件も母の口から容易に出ようとも思えなかった。最後にあれほど嫂について智識を得たがっていた兄が、だんだん冷静に傾いて来た。その代り父母や自分に対しても前ほどは口を利《き》かなくなった。暑い時でもたいていは書斎へ引籠《ひきこも》って何か熱心にやっていた。自分は時々嫂に向って、「兄さんは勉強ですか」と聞いた。嫂は「ええおおかた来学年の講義でも作ってるんでしょう」と答えた。自分はなるほどと思って、その忙しさが永く続くため、彼の心を全然そっちの方へ転換させる事ができはしまいかと念じた。嫂は平生の通り淋《さび》しい秋草のようにそこらを動いていた。そうして時々|片靨《かたえくぼ》を見せて笑った。
五
そのうち夏もしだいに過ぎた。宵々《よいよい》に見る星の光が夜ごとに深くなって来た。梧桐《あおぎり》の葉の朝夕風に揺ぐのが、肌に応《こた》えるように眼をひやひやと揺振《ゆすぶ》った。自分は秋に入ると生れ変ったように愉快な気分を時々感じ得た。自分より詩的な兄はかつて透《す》き通る秋の空を眺めてああ生き甲斐《がい》のある天だと云って嬉《うれ》しそうに真蒼《まっさお》な頭の上を眺めた事があった。
「兄さんいよいよ生き甲斐のある時候が来ましたね」と自分は兄の書斎のヴェランダに立って彼を顧みた。彼はそこにある籐椅子《といす》の上に寝ていた。
「まだ本当の秋の気分にゃなれない。もう少し経《た》たなくっちゃ駄目だね」と答えて彼は膝《ひざ》の上に伏せた厚い書物を取り上げた。時は食事前の夕方であった。自分はそれなり書斎を出て下へ行こうとした。すると兄が急に自分を呼び止めた
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