つ》いて、こんな会話を聴《き》きながら、すばらしく大きな料理屋の玄関の前に立った。自分は何よりもまずその大きいのに驚かされたが、上って案内をされた時、さらにその道中の長いのに吃驚《びっくり》した。三人は段々を下りて細い廊下を通った。
「隧道《トンネル》ですよ」
 お兼さんがこういって自分に教えてくれたとき、自分はそれが冗談《じょうだん》で、本当に地面の下ではないのだと思った。それでただ笑って薄暗いところを通り抜けた。
 座敷では佐野が一人|敷居際《しきいぎわ》に洋服の片膝を立てて、煙草《たばこ》を吹かしながら海の方を見ていた。自分達の足音を聞いた彼はすぐこっちを向いた。その時彼の額の下に、金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》が光った。部屋へ這入《はい》るとき第一に彼と顔を見合せたのは実に自分だったのである。

        九

 佐野は写真で見たよりも一層|御凸額《おでこ》であった。けれども額の広いところへ、夏だから髪を短く刈《か》っているので、ことにそう見えたのかも知れない。初対面の挨拶《あいさつ》をするとき、彼は「何分《なにぶん》よろしく」と云って頭を丁寧《ていねい》に下げた。この普通一般の挨拶ぶりが、場合が場合なので、自分には一種変に聞こえた。自分の胸は今までさほど責任を感じていなかったところへ急に重苦しい束縛《そくばく》ができた。
 四人《よつたり》は膳《ぜん》に向いながら話をした。お兼さんは佐野とはだいぶ心やすい間柄《あいだがら》と見えて、時々向側から調戯《からか》ったりした。
「佐野さん、あなたの写真の評判が東京《あっち》で大変なんですって」
「どう大変なんです。――おおかた好い方へ大変なんでしょうね」
「そりゃもちろんよ。嘘《うそ》だと覚し召すならお隣りにいらっしゃる方に伺って御覧になれば解るわ」
 佐野は笑いながらすぐ自分の方を見た。自分はちょっと何とか云わなければ跋《ばつ》が悪かった。それで真面目《まじめ》な顔をして、「どうも写真は大阪の方が東京より発達しているようですね」と云った。すると岡田が「浄瑠璃《じょうるり》じゃあるまいし」と交返《まぜかえ》した。
 岡田は自分の母の遠縁に当る男だけれども、長く自分の宅《うち》の食客《しょっかく》をしていたせいか、昔から自分や自分の兄に対しては一段低い物の云い方をする習慣をもっていた。久しぶりに会った昨日《
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