っしょにあっちへ御出《おい》で。妾達《わたしたち》は向《むこう》へ行って待っているから」と云った。嫂はいつもの通り淋《さむ》しい笑い方をして、「ええ直《じき》御後《おあと》から参ります」と答えた。
 自分達は室内の掃除に取りかかろうとする給仕《ボイ》を後《あと》にして食堂へ這入《はい》った。食堂はまだだいぶ込んでいた。出たり這入ったりするものが絶えず狭い通り路をざわつかせた。自分が母に紅茶と果物を勧めている時分に、兄と嫂の姿がようやく入口に現れた。不幸にして彼らの席は自分達の傍《そば》に見出せるほど、食卓は空《す》いていなかった。彼らは入口の所に差し向いで座を占めた。そうして普通の夫婦のように笑いながら話したり、窓の外を眺めたりした。自分を相手に茶を啜《すす》っていた母は、時々その様子を満足らしく見た。
 自分達はかくして東京へ帰ったのである。

        三

 繰返していうが、我々はこうして東京へ帰ったのである。
 東京の宅は平生の通り別にこれと云って変った様子もなかった。お貞《さだ》さんは襷《たすき》を掛けて別条なく働いていた。彼女が手拭《てぬぐい》を被《かぶ》って洗濯をしている後姿を見て、一段落置いた昔のお貞さんを思いだしたのは、帰って二日目の朝であった。
 芳江《よしえ》というのは兄夫婦の間にできた一人っ子であった。留守《るす》のうちはお重《しげ》が引受けて万事世話をしていた。芳江は元来母や嫂《あによめ》に馴《な》ついていたが、いざとなると、お重だけでも不自由を感じないほど世話の焼けない子であった。自分はそれを嫂の気性《きしょう》を受けて生れたためか、そうでなければお重の愛嬌《あいきょう》のあるためだと解釈していた。
「お重お前のようなものがよくあの芳江を預かる事ができるね。さすがにやっぱり女だなあ」と父が云ったら、お重は膨《ふく》れた顔をして、「御父さんもずいぶんな方《かた》ね」と母にわざわざ訴えに来た話を、汽車の中で聞いた。
 自分は帰ってから一両日して、彼女に、「お重お前を御父さんがやっぱり女だなとおっしゃったって怒ってるそうだね」と聞いた。彼女は「怒ったわ」と答えたなり、父の書斎の花瓶《はないけ》の水を易《か》えながら、乾いた布巾《ふきん》で水を切っていた。
「まだ怒ってるのかい」
「まだってもう忘れちまったわ。――綺麗《きれい》ねこの花は何
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