というんでしょう」
「お重しかし、女だなあというのは、そりゃ賞《ほ》めた言葉だよ。女らしい親切な子だというんだ。怒る奴《やつ》があるもんか」
「どうでもよくってよ」
 お重は帯で隠した尻の辺《あたり》を左右に振って、両手で花瓶を持ちながら父の居間の方へ行った。それが自分にはあたかも彼女が尻で怒《いかり》を見せているようでおかしかった。
 芳江は我々が帰るや否や、すぐお重の手から母と嫂に引渡された。二人は彼女を奪い合うように抱いたり下《おろ》したりした。自分の平生から不思議に思っていたのは、この外見上冷静な嫂に、頑是《がんぜ》ない芳江がよくあれほどに馴つきえたものだという眼前の事実であった。この眸《ひとみ》の黒い髪のたくさんある、そうして母の血を受けて人並よりも蒼白《あおじろ》い頬をした少女は、馴れやすからざる彼女の母の後《あと》を、奇蹟《きせき》のごとく追って歩いた。それを嫂は日本一の誇として、宅中《うちじゅう》の誰彼に見せびらかした。ことに己《おのれ》の夫に対しては見せびらかすという意味を通り越して、むしろ残酷な敵打《かたきうち》をする風にも取れた。兄は思索に遠ざかる事のできない読書家として、たいていは書斎裡《しょさいり》の人であったので、いくら腹のうちでこの少女を鍾愛《しょうあい》しても、鍾愛の報酬たる親しみの程度ははなはだ稀薄《きはく》なものであった。感情的な兄がそれを物足らず思うのも無理はなかった。食卓の上などでそれが色に出る時さえ兄の性質としてはたまにはあった。そうなるとほかのものよりお重が承知しなかった。
「芳江さんは御母さん子ね。なぜ御父さんの側《そば》に行かないの」などと故意《わざ》とらしく聞いた。
「だって……」と芳江は云った。
「だってどうしたの」とお重がまた聞いた。
「だって怖《こわ》いから」と芳江はわざと小さな声で答えた。それがお重にはなおさら忌々《いまいま》しく聞こえるのであった。
「なに? 怖いって? 誰が怖いの?」
 こんな問答がよく繰り返えされて、時には五分も十分も続いた。嫂《あによめ》はこう云う場合に、けっして眉目《びもく》を動さなかった。いつでも蒼《あお》い頬に微笑を見せながらどこまでも尋常な応対をした。しまいには父や母が双方を宥《なだ》めるために、兄から果物を貰わしたり、菓子を受け取らしたりさせて、「さあそれで好い。御父さんから
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