高《たか》を括《くく》っていられるのだと思った。そうしてその手腕を彼女はわざと出したり引込ましたりする、単に時と場合ばかりでなく、全く己れの気まま次第で出したり引込ましたりするのではあるまいかと疑ぐった。
汽車は例のごとく込み合っていた。自分達は仕切りの付いている寝台《しんだい》をやっとの思いで四つ買った。四つで一室になっているので都合は大変好かった。兄と自分は体力の優秀な男子と云う訳で、婦人|方《がた》二人に、下のベッドを当《あて》がって、上へ寝た。自分の下には嫂が横になっていた。自分は暗い中を走る汽車の響のうちに自分の下にいる嫂をどうしても忘れる事ができなかった。彼女の事を考えると愉快であった。同時に不愉快であった。何だか柔かい青大将《あおだいしょう》に身体《からだ》を絡《から》まれるような心持もした。
兄は谷一つ隔てて向うに寝ていた。これは身体が寝ているよりも本当に精神が寝ているように思われた。そうしてその寝ている精神を、ぐにゃぐにゃした例の青大将が筋違《すじかい》に頭から足の先まで巻き詰めているごとく感じた。自分の想像にはその青大将が時々熱くなったり冷たくなったりした。それからその巻きようが緩《ゆる》くなったり、緊《きつ》くなったりした。兄の顔色は青大将の熱度の変ずるたびに、それからその絡みつく強さの変ずるたびに、変った。
自分は自分の寝台《ねだい》の上で、半《なかば》は想像のごとく半は夢のごとくにこの青大将と嫂とを連想してやまなかった。自分はこの詩に似たような眠《ねむり》が、駅夫の呼ぶ名古屋名古屋と云う声で、急に破られたのを今でも記憶している。その時汽車の音がはたりと留《とま》ると同時に、さあという雨の音が聞こえた。自分は靴足袋《くつたび》の裏に湿気《しめりけ》を感じて起き上ると、足の方に当る窓が塵除《ちりよけ》の紗《しゃ》で張ってあった。自分はいそいで窓を閉《た》て換えた。ほかの人のはどうかと思って、聞いて見たが、答がなかった。ただ嫂だけが雨が降り込むようだというので、やむをえず上から飛び下りてまた窓を閉て換えてやった。
二
「雨のようね」と嫂が聞いた。
「ええ」
自分は半《なか》ば風に吹き寄せられた厚い窓掛の、じとじとに湿《しめ》ったのを片方へがらりと引いた。途端《とたん》に母の寝返りを打つ音が聞こえた。
「二郎、ここはどこ
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