。自分は平気を粧《よそお》いながら母と話している間にも、両人の会見とその会見の結果について多少気がかりなところがあった。母は二人の並んで来る様子を見て、やっと安心した風を見せた。自分にもどこかにそんなところがあった。
 自分は行李を絡《から》げる努力で、顔やら背中やらから汗がたくさん出た。腕捲《うでまく》りをした上、浴衣《ゆかた》の袖《そで》で汗を容赦なく拭いた。
「おい暑そうだ。少し扇《あお》いでやるが好い」
 兄はこう云って嫂を顧みた。嫂は静に立って自分を扇いでくれた。
「何よござんす。もう直《じき》ですから」
 自分がこう断っているうちに、やがて明日《あす》の荷造りは出来上った。


     帰ってから


        一

 自分は兄夫婦の仲がどうなる事かと思って和歌山から帰って来た。自分の予想ははたして外《はず》れなかった。自分は自然の暴風雨《あらし》に次《つい》で、兄の頭に一種の旋風が起る徴候を十分認めて彼の前を引き下った。けれどもその徴候は嫂《あによめ》が行って十分か十五分話しているうちに、ほとんど警戒を要しないほど穏かになった。
 自分は心のうちでこの変化に驚いた。針鼠《はりねずみ》のように尖《とが》ってるあの兄を、わずかの間に丸め込んだ嫂の手腕にはなおさら敬服した。自分はようやく安心したような顔を、晴々と輝かせた母を見るだけでも満足であった。
 兄の機嫌《きげん》は和歌の浦を立つ時も変らなかった。汽車の内でも同じ事であった。大阪へ来てもなお続いていた。彼は見送りに出た岡田夫婦を捕《つら》まえて戯談《じょうだん》さえ云った。
「岡田君お重《しげ》に何か言伝《ことづて》はないかね」
 岡田は要領を得ない顔をして、「お重さんにだけですか」と聞き返していた。
「そうさ君の仇敵《きゅうてき》のお重にさ」
 兄がこう答えた時、岡田はやっと気のついたという風に笑い出した。同じ意味で謎《なぞ》の解けたお兼《かね》さんも笑い出した。母の予言通り見送りに来ていた佐野も、ようやく笑う機会が来たように、憚《はばか》りなく口を開いて周囲の人を驚かした。
 自分はその時まで嫂《あによめ》にどうして兄の機嫌《きげん》を直したかを聞いて見なかった。その後もついぞ聞く機会をもたなかった。けれどもこういう霊妙な手腕をもっている彼女であればこそ、あの兄に対して始終《しじゅう》ああ
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