った事もまたなかった。自分は比較的すまして、団扇を見つめている兄の額のあたりをこっちでも見つめていた。
すると兄が急に首を上げた。
「二郎何とか云わないか」と励《はげ》しい言葉を自分の鼓膜《こまく》に射込んだ。自分はその声でまたはっと平生の自分に返った。
「今云おうと思ってるところです。しかし事が複雑なだけに、何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。兄さんもほかの事たあ違うんだから、もう少し打ち解けてゆっくり聞いて下さらなくっちゃ。そう裁判所みたように生真面目《きまじめ》に叱りつけられちゃ、せっかく咽喉《のど》まで出かかったものも、辟易《へきえき》して引込んじまいますから」
自分がこう云うと、兄はさすがに一見識《ひとけんしき》ある人だけあって、「ああそうかおれが悪かった。お前が性急《せっかち》の上へ持って来て、おれが癇癪持と来ているから、つい変にもなるんだろう。二郎、それじゃいつゆっくり話される。ゆっくり聞く事なら今でもおれにはできるつもりだが」と云った。
「まあ東京へ帰るまで待って下さい。東京へ帰るたって、あすの晩の急行だから、もう直《じき》です。その上で落ちついて僕の考えも申し上げたいと思ってますから」
「それでも好《い》い」
兄は落ちついて答えた。今までの彼の癇癪《かんしゃく》を自分の信用で吹き払い得たごとくに。
「ではどうか、そう願います」と云って自分が立ちかけた時、兄は「ああ」と肯《うな》ずいて見せたが、自分が敷居を跨《また》ぐ拍子《ひょうし》に「おい二郎」とまた呼び戻した。
「詳《くわし》い事は追って東京で聞くとして、ただ一言《ひとこと》だけ要領を聞いておこうか」
「姉さんについて……」
「無論」
「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」
自分がこう云った時、兄は急に色を変えた。けれども何にも云わなかった。自分はそれぎり席を立ってしまった。
四十四
自分はその時場合によれば、兄から拳骨《げんこつ》を食うか、または後《うしろ》から熱罵を浴《あび》せかけられる事と予期していた。色を変えた彼を後に見捨てて、自分の席を立ったくらいだから、自分は普通よりよほど彼を見縊《みくび》っていたに違なかった。その上自分はいざとなれば腕力に訴えてでも嫂《あによめ》を弁護する気概を十分|具《そな》えていた。これは
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