った」
兄はこう云った。そうしてその声は低くかつ顫《ふる》えていた。彼は母の手前、宿の手前、また自分の手前と問題の手前とを兼ねて、高くなるべきはずの咽喉《のど》を、やっとの思いで抑えているように見えた。
「お前そんな冷淡な挨拶を一口したぎりで済むものと、高《たか》を括《くく》ってるのか、子供じゃあるまいし」
「いえけっしてそんなわけじゃありません」
これだけの返事をした時の自分は真に純良なる弟であった。
四十三
「そう云うつもりでなければ、つもりでないようにもっと詳《くわし》く話したら好いじゃないか」
兄は苦《にが》り切って団扇《うちわ》の絵を見つめていた。自分は兄に顔を見られないのを幸いに、暗に彼の様子を窺《うかが》った。自分からこういうと兄を軽蔑《けいべつ》するようではなはだすまないが、彼の表情のどこかには、というよりも、彼の態度のどこかには、少し大人気《おとなげ》を欠いた稚気《ちき》さえ現われていた。今の自分はこの純粋な一本調子に対して、相応の尊敬を払う見地《けんち》を具《そな》えているつもりである。けれども人格のできていなかった当時の自分には、ただ向《むこう》の隙《すき》を見て事をするのが賢いのだという利害の念が、こんな問題にまでつけ纏《まつ》わっていた。
自分はしばらく兄の様子を見ていた。そうしてこれは与《くみ》しやすいという心が起った。彼は癇癪《かんしゃく》を起している。彼は焦《じ》れ切っている。彼はわざとそれを抑えようとしている。全く余裕のないほど緊張している。しかし風船球のように軽く緊張している。もう少し待っていれば自分の力で破裂するか、または自分の力でどこかへ飛んで行くに相違ない。――自分はこう観察した。
嫂《あによめ》が兄の手に合わないのも全くここに根ざしているのだと自分はこの時ようやく勘づいた。また嫂として存在するには、彼女の遣口《やりくち》が一番巧妙なんだろうとも考えた。自分は今日《こんにち》までただ兄の正面ばかり見て、遠慮したり気兼《きがね》したり、時によっては恐れ入ったりしていた。しかし昨日《きのう》一日一晩嫂と暮した経験は図《はか》らずもこの苦々《にがにが》しい兄を裏から甘く見る結果になって眼前に現われて来た。自分はいつ嫂から兄をこう見ろと教わった覚はなかった。けれども兄の前へ出て、これほど度胸の据《すわ》
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