った。嫂はそんな景色《けしき》もなく、自分を乗り越すや否や、琥珀《こはく》に刺繍《ぬい》のある日傘《ひがさ》を翳《かざ》した。彼女の後姿はいかにも涼しそうに見えた。奥さんと云われても云われないでも全く無関係の態度で、俥の上に澄まして乗っているとしか思われなかった。
 自分は嫂の後姿を見つめながら、また彼女の人となりに思い及んだ。自分は平生こそ嫂の性質を幾分かしっかり手に握っているつもりであったが、いざ本式に彼女の口から本当のところを聞いて見ようとすると、まるで八幡《やわた》の藪知《やぶし》らずへ這入《はい》ったように、すべてが解らなくなった。
 すべての女は、男から観察しようとすると、みんな正体の知れない嫂のごときものに帰着するのではあるまいか。経験に乏しい自分はこうも考えて見た。またその正体の知れないところがすなわち他の婦人に見出しがたい嫂《あによめ》だけの特色であるようにも考えて見た。とにかく嫂の正体は全く解らないうちに、空が蒼々《あおあお》と晴れてしまった。自分は気の抜けた麦酒《ビール》のような心持を抱いて、先へ行く彼女の後姿を絶えず眺めていた。
 突然自分は宿へ帰ってから嫂について兄に報告をする義務がまだ残っている事に気がついた。自分は何と報告して好いかよく解らなかった。云うべき言葉はたくさんあったけれども、それを一々兄の前に並べるのはとうてい自分の勇気ではできなかった。よし並べたって最後の一句は正体が知れないという簡単な事実に帰するだけであった。あるいは兄自身も自分と同じく、この正体を見届ようと煩悶《はんもん》し抜いた結果、こんな事になったのではなかろうか。自分は自分がもし兄と同じ運命に遭遇したら、あるいは兄以上に神経を悩ましはしまいかと思って、始めて恐ろしい心持がした。
 俥《くるま》が宿へ着いたとき、三階の縁側《えんがわ》には母の影も兄の姿も見えなかった。

        四十

 兄は三階の日に遠い室《へや》で例の黒い光沢《つや》のある頭を枕《まくら》に着けて仰向《あおむ》きになっていた。けれども眠ってはいなかった。むしろ充血した眼を見張るように緊張して天井《てんじょう》を見つめていた。彼は自分達の足音を聞くや否や、いきなりその血走った眼を自分と嫂に注いだ。自分は兼《かね》てからその眼つきを予想し得なかったほど兄を知らない訳でもなかった。けれども室
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