の入口で嫂と相並んで立ちながら、昨夕《ゆうべ》まんじりともしなかったと自白しているような彼の赤くて鋭い眼つきを見た時は、少し驚かされた。自分はこういう場合の緩和剤《かんわざい》として例《いつも》の通り母を求めた。その母は座敷の中にも縁側にもどこにも見当らなかった。
 自分が彼女を探《さが》しているうちに嫂は兄の枕元に坐って挨拶《あいさつ》をした。
「ただいま」
 兄は何とも答えなかった。嫂はまた坐ったなりそこを動かなかった。自分は勢いとして口を開くべく余儀なくされた。
「昨夕こっちは大変な暴風雨《あらし》でしたってね」
「うんずいぶんひどい風だった」
「波があの石の土手を越して松並木から下へ流れ込んだの」
 これは嫂の言葉であった。兄はしばらく彼女の顔を眺めていた。それから徐《おもむ》ろに答えた。
「いやそうでもない。家に故障はなかったはずだ」
「じゃ。無理に帰れば帰れたのね」
 嫂はこう云って自分を顧みた。自分は彼女よりもむしろ兄の方に向いた。
「いやとても帰れなかったんです。電車がだいち通じないんですもの」
「そうかも知れない。昨日《きのう》は夕方あたりからあの波が非常に高く見えたから」
「夜中《よなか》に宅《うち》が揺れやしなくって」
 これも嫂《あによめ》の兄に聞いた問であった。今度は兄がすぐ答えた。
「揺れた。お母さんは危険だからと云って下へ降りて行かれたくらい揺れた」
 自分は兄の眼色の険悪な割合に、それほど殺気を帯びていない彼の言語動作をようよう確め得た時やっと安心した。彼は自分の性急《せっかち》に比べると約五倍がたの癇癪持《かんしゃくもち》であった。けれども一種|天賦《てんぷ》の能力があって、時にその癇癪を巧《たくみ》に殺す事ができた。
 その内に明神様《みょうじんさま》へ御参りに行った母が帰って来た。彼女は自分の顔を見てようやく安心したというような色をしてくれた。
「よく早く帰れて好かったね。――まあ昨夕《ゆうべ》の恐ろしさったら、そりゃ御話にも何にもならないんだよ、二郎。この柱がぎいぎいって鳴るたんびに、座敷が右左に動《いご》くんだろう。そこへ持って来て、あの浪《なみ》の音がね。――わたしゃ今聞いても本当にぞっとするよ……」
 母は昨夕の暴風雨《あらし》をひどく怖《こわ》がった。ことにその聯想《れんそう》から出る、防波堤《ぼうはてい》を砕きにかか
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