が鼻と口から濛々《もうもう》と出る煙ばかりを眺めていた。自分はその間に気味のわるい眼を転じて、時々蚊帳の中を窺《うかが》った。嫂の姿は死んだように静であった。あるいはすでに寝ついたのではないかとも思われた。すると突然|仰向《あおむ》けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。
「何ですか」と自分は答えた。
「あなたそこで何をしていらっしゃるの」
「煙草を呑《の》んでるんです。寝られないから」
「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」
「ええ」
自分は蚊帳の裾《すそ》を捲《ま》くって、自分の床の中に這入《はい》った。
三十九
翌日《よくじつ》は昨日《きのう》と打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。
「好い天気になりましたね」と自分は嫂《あによめ》に向って云った。
「本当《ほんと》ね」と彼女も答えた。
二人はよく寝なかったから、夢から覚《さ》めたという心持はしなかった。ただ床を離れるや否や魔から覚めたという感じがしたほど、空は蒼《あお》く染められていた。
自分は朝飯《あさめし》の膳《ぜん》に向いながら、廂《ひさし》を洩《も》れる明らかな光を見て、急に気分の変化に心づいた。したがって向い合っている嫂の姿が昨夕《ゆうべ》の嫂とは全く異なるような心持もした。今朝《けさ》見ると彼女の眼にどこといって浪漫的《ロマンてき》な光は射していなかった。ただ寝の足りない※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》が急に爽《さわや》かな光に照らされて、それに抵抗するのがいかにも慵《ものう》いと云ったような一種の倦怠《けた》るさが見えた。頬の蒼白《あおじろ》いのも常に変らなかった。
我々はできるだけ早く朝飯を済まして宿を立った。電車はまだ通じないだろうという宿のものの注意を信用して俥《くるま》を雇った。車夫は土間から表に出た我々を一目見て、すぐ夫婦ものと鑑定したらしかった。俥に乗るや否や自分の梶棒《かじぼう》を先へ上げた。自分はそれをとめるように、「後《あと》から後から」と云った。車夫は心得て「奥さんの方が先だ」と相図した。嫂の俥が自分の傍《そば》を擦《す》り抜ける時、彼女は例の片靨《かたえくぼ》を見せて「御先へ」と挨拶《あいさつ》した。自分は「さあどうぞ」と云ったようなものの、腹の中では車夫の口にした奥さんという言葉が大いに気にな
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