た。暴風雨《しけ》で魚がないと下女が言訳を云ったにかかわらず、われわれの膳《ぜん》の上は明かであった。
「まるで生返ったようね」と嫂が云った。
すると電灯がまたぱっと消えた。自分は急に箸《はし》を消えたところに留めたぎり、しばらく動かさなかった。
「おやおや」
下女は大きな声をして朋輩《ほうばい》の名を呼びながら灯火《あかり》を求めた。自分は電気灯がぱっと明るくなった瞬間に嫂《あによめ》が、いつの間にか薄く化粧《けしょう》を施したという艶《なまめ》かしい事実を見て取った。電灯の消えた今、その顔だけが真闇《まっくら》なうちにもとの通り残っているような気がしてならなかった。
「姉さんいつ御粧《おつくり》したんです」
「あら厭《いや》だ真闇になってから、そんな事を云いだして。あなたいつ見たの」
下女は暗闇《くらやみ》で笑い出した。そうして自分の眼ざとい事を賞《ほ》めた。
「こんな時に白粉《おしろい》まで持って来るのは実に細かいですね、姉さんは」と自分はまた暗闇の中で嫂に云った。
「白粉なんか持って来やしないわ。持って来たのはクリームよ、あなた」と彼女はまた暗闇の中で弁解した。
自分は暗がりの中で、しかも下女のいる前で、こんな冗談を云うのが常よりは面白かった。そこへ彼女の朋輩がまた別の蝋燭《ろうそく》を二本ばかり点《つ》けて来た。
室《へや》の中は裸蝋燭の灯《ひ》で渦《うず》を巻くように動揺した。自分も嫂も眉《まゆ》を顰《ひそ》めて燃える焔《ほのお》の先を見つめていた。そうして落ちつきのない淋《さび》しさとでも形容すべき心持を味わった。
ほどなく自分達は寝た。便所に立った時、自分は窓の間から空を仰ぐように覗《のぞ》いて見た。今まで多少静まっていた暴風雨《あらし》が、この時は夜更《よふけ》と共に募《つの》ったものか、真黒な空が真黒いなりに活動して、瞬間も休まないように感ぜられた。自分は恐ろしい空の中で、黒い電光が擦《す》れ合って、互に黒い針に似たものを隙間《すきま》なく出しながら、この暗さを大きな音の中《うち》に維持しているのだと想像し、かつその想像の前に畏縮《いしゅく》した。
蚊帳《かや》の外には蝋燭の代りに下女が床を延べた時、行灯《あんどん》を置いて行った。その行灯がまた古風《こふう》な陰気なもので、いっそ吹き消して闇《くら》がりにした方が、微《かす》かな光
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