》りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦《す》れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻《さっき》下女が浴衣《ゆかた》を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」と嫂《あによめ》が答えた。
自分が暗闇《くらやみ》で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭《ろうそく》を点《つ》けて縁側伝《えんがわづた》いに持って来た。そうしてそれを座敷の床《とこ》の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔《ほのお》がちらちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤《すす》けた天井はもちろん、灯《ひ》の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋《さび》しく焦立《いただ》たせた。ことさら床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影響を受けた。自分は手拭《てぬぐい》を持って、また汗を流しに風呂へ行った。風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。
三十六
自分は佗《わ》びしい光でやっと見分《みわけ》のつく小桶《こおけ》を使ってざあざあ背中を流した。出がけにまた念のためだから電話をちりんちりん鳴らして見たがさらに通じる気色《けしき》がないのでやめた。
嫂は自分と入れ代りに風呂へ入ったかと思うとすぐ出て来た。「何だか暗くって気味が悪いのね。それに桶《おけ》や湯槽《ゆぶね》が古いんでゆっくり洗う気にもなれないわ」
その時自分は畏《かしこ》まった下女を前に置いて蝋燭の灯を便《たより》に宿帳をつけべく余儀なくされていた。
「姉さん宿帳はどうつけたら好いでしょう」
「どうでも。好い加減に願います」
嫂はこう云って小さい袋から櫛《くし》やなにか這入《はい》っている更紗《さらさ》の畳紙《たとう》を出し始めた。彼女は後向《うしろむき》になって蝋燭を一つ占領して鏡台に向いつつ何かやっていた。自分は仕方なしに東京の番地と嫂の名を書いて、わざと傍《そば》に一郎|妻《さい》と認《したた》めた。同様の意味で自分の側《わき》にも一郎|弟《おとと》とわざわざ断った。
飯の出る前に、何の拍子《ひょうし》か、先に暗くなった電灯がまた一時に明るくなった。その時台所の方でわあと喜びの鬨《とき》の声を挙げたものがあっ
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