晩食などを欲しいと思う気になれなかった。
「どうします」と嫂《あによめ》に相談して見た。
「そうね。どうでもいいけども。せっかく泊ったもんだから、御膳《おぜん》だけでも見た方がいいでしょう」と彼女は答えた。
 下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中《うちじゅう》の電灯がぱたりと消えた。黒い柱と煤《すす》けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗《まっくら》になった。自分は鼻の先に坐《すわ》っている嫂を嗅《か》げば嗅がれるような気がした。
「姉さん怖《こわ》かありませんか」
「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。またわざと怖がって見せる若々しい蓮葉《はすは》の態度もなかった。
 二人は暗黒のうちに坐っていた。動かずにまた物を云わずに、黙って坐っていた。眼に色を見ないせいか、外の暴風雨《あらし》は今までよりは余計耳についた。雨は風に散らされるのでそれほど恐ろしい音も伝えなかったが、風は屋根も塀《へい》も電柱も、見境《みさかい》なく吹き捲《めく》って悲鳴を上げさせた。自分達の室《へや》は地面の上の穴倉みたような所で、四方共|頑丈《がんじょう》な建物だの厚い塗壁だのに包《かこ》まれて、縁の前の小さい中庭さえ比較的安全に見えたけれども、周囲一面から出る一種|凄《すさま》じい音響は、暗闇《くらやみ》に伴って起る人間の抵抗しがたい不可思議な威嚇《いかく》であった。
「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯《ひ》を持って来るでしょうから」
 自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜《こまく》に響いてくるのを暗に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それが漆《うるし》に似た暗闇の威力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であった。しまいに自分の傍《そば》にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出した。
「姉さん」
 嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。
「何よ」
 彼女の答は何だか蒼蠅《うるさ》そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘《うそ》だと思うならここへ来て手で障《さわ》って御覧なさい」
 自分は手捜《てさぐ
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