に照らされる無気味さよりはかえって心持が好いくらいだった。自分は燐寸《マッチ》を擦《す》って、薄暗い所で煙草《たばこ》を呑《の》み始めた。
三十七
自分は先刻《さっき》から少しも寝なかった。小用《こよう》に立って、一本の紙巻を吹かす間にもいろいろな事を考えた。それが取りとめもなく雑然と一度に来るので、自分にも何が主要の問題だか捕えられなかった。自分は燐寸を擦って煙草を呑んでいる事さえ時々忘れた。しかもそこに気がついて、再び吸口を唇《くちびる》に銜《くわ》える時の煙の無味《まず》さはまた特別であった。
自分の頭の中には、今見て来た正体《しょうたい》の解らない黒い空が、凄《すさ》まじく一様に動いていた。それから母や兄のいる三階の宿が波を幾度となく被《かぶ》って、くるりくるりと廻り出していた。それが片づかないうちに、この部屋の中に寝ている嫂の事がまた気になり出した。天災とは云え二人でここへ泊った言訳をどうしたものだろうと考えた。弁解してから後《あと》、兄の機嫌《きげん》をどうして取り直したものだろうとも考えた。同時に今日嫂といっしょに出て、滅多《めった》にないこんな冒険を共にした嬉《うれ》しさがどこからか湧《わ》いて出た。その嬉しさが出た時、自分は風も雨も海嘯《つなみ》も母も兄もことごとく忘れた。するとその嬉しさがまた俄然《がぜん》として一種の恐ろしさに変化した。恐ろしさと云うよりも、むしろ恐ろしさの前触《まえぶれ》であった。どこかに潜伏しているように思われる不安の徴候であった。そうしてその時は外面《そと》を狂い廻る暴風雨《あらし》が、木を根こぎにしたり、塀《へい》を倒したり、屋根瓦を捲《め》くったりするのみならず、今薄暗い行灯《あんどん》[#ルビの「あんどん」は底本では「あんどう」]の下《もと》で味のない煙草《たばこ》を吸っているこの自分を、粉微塵《こみじん》に破壊する予告のごとく思われた。
自分がこんな事をぐるぐる考えているうちに、蚊帳《かや》の中に死人のごとくおとなしくしていた嫂《あによめ》が、急に寝返《ねがえり》をした。そうして自分に聞えるように長い欠伸《あくび》をした。
「姉さんまだ寝ないんですか」と自分は煙草の煙の間から嫂に聞いた。
「ええ、だってこの吹き降りじゃ寝ようにも寝られないじゃありませんか」
「僕もあの風の音が耳についてどう
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