辞《おせじ》を使うの。妾御世辞は大嫌《だいきら》いよ。兄さんも御嫌いよ」
「御世辞なんか嬉《うれ》しがるものもないでしょうけれども、もう少しどうかしたら兄さんも幸福でしょうし、姉さんも仕合せだろうから……」
「よござんす。もう伺わないでも」と云った嫂《あね》は、その言葉の終らないうちに涙をぽろぽろと落した。
「妾《あたし》のような魂《たましい》の抜殻《ぬけがら》はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。しかし私はこれで満足です。これでたくさんです。兄さんについて今まで何の不足を誰にも云った事はないつもりです。そのくらいの事は二郎さんもたいてい見ていて解りそうなもんだのに……」
 泣きながら云う嫂《あによめ》の言葉は途切《とぎ》れ途切れにしか聞こえなかった。しかしその途切れ途切れの言葉が鋭い力をもって自分の頭に応《こた》えた。

        三十二

 自分は経験のある或る年長者から女の涙に金剛石《ダイヤ》はほとんどない、たいていは皆ギヤマン細工《ざいく》だとかつて教わった事がある。その時自分はなるほどそんなものかと思って感心して聞いていた。けれどもそれは単に言葉の上の智識に過ぎなかった。若輩《じゃくはい》な自分は嫂の涙を眼の前に見て、何となく可憐《かれん》に堪《た》えないような気がした。ほかの場合なら彼女の手を取って共に泣いてやりたかった。
「そりゃ兄さんの気むずかしい事は誰にでも解ってます。あなたの辛抱も並大抵《なみたいてい》じゃないでしょう。けれども兄さんはあれで潔白すぎるほど潔白で正直すぎるほど正直な高尚な男です。敬愛すべき人物です……」
「二郎さんに何もそんな事を伺わないでも兄さんの性質ぐらい妾だって承知しているつもりです。妻《さい》ですもの」
 嫂はこう云ってまたしゃくり上げた。自分はますます可哀《かわい》そうになった。見ると彼女の眼を拭《ぬぐ》っていた小形の手帛《ハンケチ》が、皺《しわ》だらけになって濡《ぬ》れていた。自分は乾いている自分ので彼女の眼や頬を撫《な》でてやるために、彼女の顔に手を出したくてたまらなかった。けれども、何とも知れない力がまたその手をぐっと抑えて動けないように締めつけている感じが強く働いた。
「正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですか、また嫌《きらい》なんですか」
 自分はこう云ってしまった後《あと》で、この言葉は手を出して嫂
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