の頬を、拭いてやれない代りに自然口の方から出たのだと気がついた。嫂は手帛と涙の間から、自分の顔を覗《のぞ》くように見た。
「二郎さん」
「ええ」
この簡単な答は、あたかも磁石《じしゃく》に吸われた鉄の屑《くず》のように、自分の口から少しの抵抗もなく、何らの自覚もなく釣り出された。
「あなた何の必要があってそんな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾《あたし》が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」
「そういう訳じゃけっしてないんですが」
「だから先刻《さっき》から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜《ふぬけ》のせいだって」
「そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。誰も宅《うち》のものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから」
「云わなくっても腑抜よ。よく知ってるわ、自分だって。けど、これでも時々は他《ひと》から親切だって賞《ほ》められる事もあってよ。そう馬鹿にしたものでもないわ」
自分はかつて大きなクッションに蜻蛉《とんぼ》だの草花だのをいろいろの糸で、嫂《あによめ》に縫いつけて貰った御礼に、あなたは親切だと感謝した事があった。
「あれ、まだ有るでしょう綺麗《きれい》ね」と彼女が云った。
「ええ。大事にして持っています」と自分は答えた。自分は事実だからこう答えざるを得なかった。こう答える以上、彼女が自分に親切であったという事実を裏から認識しない訳に行かなかった。
ふと耳を欹《そばだ》てると向うの二階で弾《ひ》いていた三味線はいつの間にかやんでいた。残り客らしい人の酔った声が時々風を横切って聞こえた。もうそれほど遅くなったのかと思って、時計を捜《さが》し出しにかかったところへ女中が飛石伝《とびいしづたい》に縁側《えんがわ》から首を出した。
自分らはこの女中を通じて、和歌の浦が今暴風雨に包まれているという事を知った。電話が切れて話が通じないという事を知った。往来の松が倒れて電車が通じないという事も知った。
三十三
自分はその時急に母や兄の事を思い出した。眉《まゆ》を焦《こが》す火のごとく思い出した。狂《くる》う風と渦巻《うずま》く浪《なみ》に弄《もてあそ》ばれつつある彼らの宿が想像の眼にありありと浮んだ。
「姉さん大変な事になりましたね」と自分は嫂を顧みた。嫂はそれほど驚いた様子もなかっ
前へ
次へ
全260ページ中98ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング