年になりますかね」と聞いた。
 嫂《あによめ》はただ澄まして「そうね」と云った。
「妾《あたし》そんな事みんな忘れちまったわ。だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの」
 嫂のこの恍《とぼ》け方《かた》はいかにも嫂らしく響いた。そうして自分にはかえって嬌態《きょうたい》とも見えるこの不自然が、真面目《まじめ》な兄にはなはだしい不愉快を与えるのではなかろうかと考えた。
「姉さんは自分の年にさえ冷淡なんですね」
 自分はこんな皮肉を何となく云った。しかし云ったときの浮気《うわき》な心にすぐ気がつくと急に兄にすまない恐ろしさに襲われた。
「自分の年なんかに、いくら冷淡でも構わないから、兄さんにだけはもう少し気をつけて親切にして上げて下さい」
「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。これでもできるだけの事は兄さんにして上げてるつもりよ。兄さんばかりじゃないわ。あなたにだってそうでしょう。ねえ二郎さん」
 自分は、自分にもっと不親切にして構わないから、兄の方には最《もう》少し優しくしてくれろと、頼むつもりで嫂の眼を見た時、また急に自分の甘《あま》いのに気がついた。嫂の前へ出て、こう差し向いに坐《すわ》ったが最後、とうてい真底から誠実に兄のために計る事はできないのだとまで思った。自分は言葉には少しも窮しなかった。どんな言語でも兄のために使おうとすれば使われた。けれどもそれを使う自分の心は、兄のためでなくってかえって自分のために使うのと同じ結果になりやすかった。自分はけっしてこんな役割を引き受けべき人格でなかった。自分は今更のように後悔した。
「あなた急に黙っちまったのね」とその時嫂が云った。あたかも自分の急所を突くように。
「兄さんのために、僕が先刻《さっき》からあなたに頼んでいる事を、姉さんは真面目に聞いて下さらないから」
 自分は恥ずかしい心を抑《おさ》えてわざとこう云った。すると嫂は変に淋《さみ》しい笑い方をした。
「だってそりゃ無理よ二郎さん。妾馬鹿で気がつかないから、みんなから冷淡と思われているかも知れないけれど、これで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。――妾ゃ本当に腑抜《ふぬけ》なのよ。ことに近頃は魂《たましい》の抜殻《ぬけがら》になっちまったんだから」
「そう気を腐《くさ》らせないで、もう少し積極的にしたらどうです」
「積極的ってどうするの。御世
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