ているとしか自分には見えなかった。
「二郎おれは御前を信用している。御前の潔白な事はすでに御前の言語が証明している。それに間違はないだろう」
「ありません」
「それでは打ち明けるが、実は直《なお》の節操《せっそう》を御前に試《ため》して貰《もら》いたいのだ」
自分は「節操を試す」という言葉を聞いた時、本当に驚いた。当人から驚くなという注意が二遍あったにかかわらず、非常に驚いた。ただあっけに取られて、呆然《ぼうぜん》としていた。
「なぜ今になってそんな顔をするんだ」と兄が云った。
自分は兄の眼に映じた自分の顔をいかにも情《なさけ》なく感ぜざるを得なかった。まるでこの間の会見とは兄弟地を換えて立ったとしか思えなかった。それで急に気を取り直した。
「姉さんの節操を試すなんて、――そんな事は廃《よ》した方が好いでしょう」
「なぜ」
「なぜって、あんまり馬鹿らしいじゃありませんか」
「何が馬鹿らしい」
「馬鹿らしかないかも知れないが、必要がないじゃありませんか」
「必要があるから頼むんだ」
自分はしばらく黙っていた。広い境内《けいだい》には参詣人《さんけいにん》の影も見えないので、四辺《あたり》は存外|静《しずか》であった。自分はそこいらを見廻して、最後に我々二人の淋《さび》しい姿をその一隅に見出した時、薄気味の悪い心持がした。
「試すって、どうすれば試されるんです」
「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊ってくれれば好いんだ」
「下らない」と自分は一口に退《しり》ぞけた。すると今度は兄が黙った。自分は固《もと》より無言であった。海に射《い》りつける落日《らくじつ》の光がしだいに薄くなりつつなお名残《なごり》の熱を薄赤く遠い彼方《あなた》に棚引《たなび》かしていた。
「厭《いや》かい」と兄が聞いた。
「ええ、ほかの事ならですが、それだけは御免《ごめん》です」と自分は判切《はっき》り云い切った。
「じゃ頼むまい。その代りおれは生涯《しょうがい》御前を疑ぐるよ」
「そりゃ困る」
「困るならおれの頼む通りやってくれ」
自分はただ俯向《うつむ》いていた。いつもの兄ならもう疾《とく》に手を出している時分であった。自分は俯向《うつむ》きながら、今に兄の拳《こぶし》が帽子の上へ飛んで来るか、または彼の平手《ひらて》が頬のあたりでピシャリと鳴るかと思って、じっと癇癪玉《かんしゃくだま
前へ
次へ
全260ページ中86ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング