岡田の通《かよ》っている石造の会社の周囲《しゅうい》を好い加減に歩き廻った。同じ流れか、違う流れか、水の面《おもて》が二三度目に入《はい》った。そのうち暑さに堪《た》えられなくなって、また好い加減に岡田の家《うち》へ帰って来た。
二階へ上《あが》って、――自分は昨夜《ゆうべ》からこの六畳の二階を、自分の室《へや》と心得るようになった。――休息していると、下から階子段を踏む音がして、お兼さんが上《あが》って来た。自分は驚いて脱《ぬ》いだ肌《はだ》を入れた。昨日|廂《ひさし》に束《つか》ねてあったお兼さんの髪は、いつの間にか大きな丸髷《まるまげ》に変っていた。そうして桃色の手絡《てがら》が髷《まげ》の間から覗《のぞ》いていた。
六
お兼さんは黒い盆の上に載《の》せた平野水《ひらのすい》と洋盃《コップ》を自分の前に置いて、「いかがでございますか」と聞いた。自分は「ありがとう」と答えて、盆を引き寄せようとした。お兼さんは「いえ私が」と云って急に罎《びん》を取り上げた。自分はこの時黙ってお兼さんの白い手ばかり見ていた。その手には昨夕《ゆうべ》気がつかなかった指環《ゆびわ》が一つ光っていた。
自分が洋盃《コップ》を取上げて咽喉《のど》を潤《うるお》した時、お兼さんは帯の間から一枚の葉書を取り出した。
「先ほどお出《で》かけになった後《あと》で」と云いかけて、にやにや笑っている。自分はその表面に三沢の二字を認めた。
「とうとう参りましたね。御待かねの……」
自分は微笑しながら、すぐ裏を返して見た。
「一両日|後《おく》れるかも知れぬ」
葉書に大きく書いた文字はただこれだけであった。
「まるで電報のようでございますね」
「それであなた笑ってたんですか」
「そう云う訳でもございませんけれども、何だかあんまり……」
お兼さんはそこで黙ってしまった。自分はお兼さんをもっと笑わせたかった。
「あんまり、どうしました」
「あんまりもったいないようですから」
お兼さんのお父さんというのは大変|緻密《ちみつ》な人で、お兼さんの所へ手紙を寄こすにも、たいていは葉書で用を弁じている代りに蠅《はえ》の頭のような字を十五行も並べて来るという話しを、お兼さんは面白そうにした。自分は三沢の事を全く忘れて、ただ前にいるお兼さんを的《まと》に、さまざまの事を尋ねたり聞いたりした
前へ
次へ
全260ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング