。
「奥さん、子供が欲しかありませんか。こうやって、一人で留守《るす》をしていると退屈するでしょう」
「そうでもございませんわ。私《わたくし》兄弟の多い家《うち》に生れて大変苦労して育ったせいか、子供ほど親を意地見《いじめ》るものはないと思っておりますから」
「だって一人や二人はいいでしょう。岡田君は子供がないと淋《さみ》しくっていけないって云ってましたよ」
お兼さんは何にも答えずに窓の外の方を眺《なが》めていた。顔を元へ戻しても、自分を見ずに、畳の上にある平野水の罎を見ていた。自分は何にも気がつかなかった。それでまた「奥さんはなぜ子供ができないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。自分はただ心やすだてで云ったことが、はなはだ面白くない結果を引き起したのを後悔した。けれどもどうする訳《わけ》にも行かなかった。その時はただお兼さんに気の毒をしたという心だけで、お兼さんの赤くなった意味を知ろうなどとは夢にも思わなかった。
自分はこの居苦《いぐる》しくまた立苦《たちぐる》しくなったように見える若い細君を、どうともして救わなければならなかった。それには是非共話頭を転ずる必要があった。自分はかねてからさほど重きを置いていなかった岡田のいわゆる「例の一件」をとうとう持ち出した。お兼さんはすぐ元の態度を回復した。けれども夫に責任の過半を譲《ゆず》るつもりか、けっして多くを語らなかった。自分もそう根掘り葉掘り聞きもしなかった。
七
「例の一件」が本式に岡田の口から持ち出されたのはその晩の事であった。自分は露《つゆ》に近い縁側《えんがわ》を好んでそこに座を占めていた。岡田はそれまでお兼さんと向き合って座敷の中に坐《すわ》っていたが、話が始まるや否や、すぐ立って縁側へ出て来た。
「どうも遠くじゃ話がし悪《にく》くっていけない」と云いながら、模様のついた座蒲団《ざぶとん》を自分の前に置いた。お兼さんだけは依然として元の席を動かなかった。
「二郎さん写真は見たでしょう、この間僕が送った」
写真の主《ぬし》というのは、岡田と同じ会社へ出る若い人であった。この写真が来た時|家《うち》のものが代りばんこに見て、さまざまの批評を加えたのを、岡田は知らないのである。
「ええちょっと見ました」
「どうです評判は」
「少し御凸額《おでこ》だって云ったものもあり
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