もした。三沢から何《なん》の音信《たより》のないのも気がかりであった。しかしこうして幸福な家庭の客となって、彼の消息を待つために四五日ぐずぐずしているのも悪くはないと考えた。一番どうでも好かったのは岡田のいわゆる「例の一件」であった。
 翌日《よくじつ》眼が覚《さ》めると、窓の下の狭苦しい庭で、岡田の声がした。
「おいお兼とうとう絞《しぼ》りのが咲き出したぜ。ちょいと来て御覧」
 自分は時計を見て、腹這《はらばい》になった。そうして燐寸《マッチ》を擦《す》って敷島《しきしま》へ火を点《つ》けながら、暗《あん》にお兼さんの返事を待ち構えた。けれどもお兼さんの声はまるで聞えなかった。岡田は「おい」「おいお兼」をまた二三度繰返した。やがて、「せわしない方ね、あなたは。今朝顔どころじゃないわ、台所が忙《いそが》しくって」という言葉が手に取るように聞こえた。お兼さんは勝手から出て来て座敷の縁側《えんがわ》に立っているらしい。
「それでも綺麗《きれい》ね。咲いて見ると。――金魚はどうして」
「金魚は泳いでいるがね。どうもこのほうはむずかしいらしい」
 自分はお兼さんが、死にかかった金魚の運命について、何かセンチメンタルな事でもいうかと思って、煙草《たばこ》を吹かしながら聴いていた。けれどもいくら待っていても、お兼さんは何とも云わなかった。岡田の声も聞こえなかった。自分は煙草を捨てて立ち上った。そうしてかなり急な階子段《はしごだん》を一段ずつ音を立てて下へ降りて行った。
 三人で飯を済ました後《あと》、岡田は会社へ出勤しなければならないので、緩《ゆっく》り案内をする時間がないのを残念がった。自分はここへ来る前から、そんな事を全く予期していなかったと云って、白い詰襟姿《つめえりすがた》の彼を坐ったまま眺《なが》めていた。
「お兼、お前暇があるなら二郎さんを案内して上げるが好い」と岡田は急に思いついたような顔つきで云った。お兼さんはいつもの様子に似ず、この時だけは夫にも自分にも何とも答えなかった。自分はすぐ、「なに構わない。君といっしょに君の会社のある方角まで行って、そこいらを逍遥《ぶらつ》いて見よう」と云いながら立った。お兼さんは玄関で自分の洋傘《こうもり》を取って、自分に手渡ししてくれた。それからただ一口「お早く」と云った。
 自分は二度電車に乗せられて、二度下ろされた。そうして
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