りたかった。すると岡田が「それに二人《ふたり》ぎりじゃ淋しくってね」とまたつけ加えた。
「二人ぎりだから仲が好いんでしょう」
「子供ができると夫婦の愛は減るもんでしょうか」
 岡田と自分は実際二人の経験以外にあることをさも心得たように話し合った。
 宅《うち》では食卓の上に刺身だの吸物だのが綺麗《きれい》に並んで二人を待っていた。お兼さんは薄化粧《うすげしょう》をして二人のお酌をした。時々は団扇《うちわ》を持って自分を扇《あお》いでくれた。自分はその風が横顔に当るたびに、お兼さんの白粉《おしろい》の匂《におい》を微《かす》かに感じた。そうしてそれが麦酒《ビール》や山葵《わさび》の香《か》よりも人間らしい好い匂のように思われた。
「岡田君はいつもこうやって晩酌《ばんしゃく》をやるんですか」と自分はお兼さんに聞いた。お兼さんは微笑しながら、「どうも後引上戸《あとひきじょうご》で困ります」と答えてわざと夫の方を見やった。夫は、「なに後《あと》が引けるほど飲ませやしないやね」と云って、傍《そば》にある団扇を取って、急に胸のあたりをはたはたいわせた。自分はまた急にこっちで会うべきはずの友達の事に思い及んだ。
「奥さん、三沢《みさわ》という男から僕に宛《あ》てて、郵便か電報か何か来ませんでしたか。今散歩に出た後で」
「来やしないよ。大丈夫だよ、君。僕の妻はそう云う事はちゃんと心得てるんだから。ねえお兼。――好いじゃありませんか、三沢の一人や二人来たって来なくたって。二郎さん、そんなに僕の宅が気に入らないんですか。第一《だいち》あなたはあの一件からして片づけてしまわなくっちゃならない義務があるでしょう」
 岡田はこう云って、自分の洋盃《コップ》へ麦酒をゴボゴボと注《つ》いだ。もうよほど酔っていた。

        五

 その晩はとうとう岡田の家《うち》へ泊った。六畳の二階で一人寝かされた自分は、蚊帳《かや》の中の暑苦しさに堪《た》えかねて、なるべく夫婦に知れないように、そっと雨戸を開け放った。窓際《まどぎわ》を枕に寝ていたので、空は蚊帳越にも見えた。試《ためし》に赤い裾《すそ》から、頭だけ出して眺《なが》めると星がきらきらと光った。自分はこんな事をする間にも、下にいる岡田夫婦の今昔《こんじゃく》は忘れなかった。結婚してからああ親しくできたらさぞ幸福だろうと羨《うらや》ましい気
前へ 次へ
全260ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング