すか」と自分はやむを得ず兄に聞き返した。
「直は御前に惚《ほ》れてるんじゃないか」
兄の言葉は突然であった。かつ普通兄のもっている品格にあたいしなかった。
「どうして」
「どうしてと聞かれると困る。それから失礼だと怒られてはなお困る。何も文《ふみ》を拾ったとか、接吻《せっぷん》したところを見たとか云う実証から来た話ではないんだから。本当いうと表向《おもてむき》こんな愚劣な問を、いやしくも夫たるおれが、他人に向ってかけられた訳のものではない。ないが相手が御前だからおれもおれの体面を構わずに、聞き悪いところを我慢して聞くんだ。だから云ってくれ」
「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、ことに現在の嫂ですぜ」
自分はこう答えた。そうしてこう答えるよりほかに何と云う言葉も出なかった。
「それは表面の形式から云えば誰もそう答えなければならない。御前も普通の人間だからそう答えるのが至当だろう。おれもその一言《いちごん》を聞けばただ恥じ入るよりほかに仕方がない。けれども二郎御前は幸いに正直な御父さんの遺伝を受けている。それに近頃の、何事も隠さないという主義を最高のものとして信じているから聞くのだ。形式上の答えはおれにも聞かない先から解っているが、ただ聞きたいのは、もっと奥の奥の底にある御前の感じだ。その本当のところをどうぞ聞かしてくれ」
十九
「そんな腹の奥の奥底にある感じなんて僕に有るはずがないじゃありませんか」
こう答えた時、自分は兄の顔を見ないで、山門の屋根を眺めていた。兄の言葉はしばらく自分の耳に聞こえなかった。するとそれが一種の癇高《かんだか》い、さも昂奮《こうふん》を抑《おさ》えたような調子になって響いて来た。
「おい二郎何だってそんな軽薄な挨拶《あいさつ》をする。おれと御前は兄弟じゃないか」
自分は驚いて兄の顔を見た。兄の顔は常磐木《ときわぎ》の影で見るせいかやや蒼味《あおみ》を帯びていた。
「兄弟ですとも。僕はあなたの本当の弟《おとと》です。だから本当の事を御答えしたつもりです。今云ったのはけっして空々しい挨拶でも何でもありません。真底そうだからそういうのです」
兄の神経の鋭敏なごとく自分は熱しやすい性急《せっかち》であった。平生の自分ならあるいはこんな返事は出なかったかも知れない。兄はその時簡単な一句を射た。
「きっと」
「ええき
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