っと」
「だって御前の顔は赤いじゃないか」
 実際その時の自分の顔は赤かったかも知れない。兄の面色《めんしょく》の蒼《あお》いのに反して、自分は我知らず、両方の頬の熱《ほて》るのを強く感じた。その上自分は何と返事をして好いか分らなかった。
 すると兄は何と思ったかたちまち階段から腰を起した。そうして腕組をしながら、自分の席を取っている前を右左に歩き出した。自分は不安な眼をして、彼の姿を見守った。彼は始めから眼を地面の上に落していた。二三度自分の前を横切ったけれどもけっして一遍もその眼を上げて自分を見なかった。三度目に彼は突如として、自分の前に来て立ち留った。
「二郎」
「はい」
「おれは御前の兄だったね。誠に子供らしい事を云って済まなかった」
 兄の眼の中には涙がいっぱい溜《たま》っていた。
「なぜです」
「おれはこれでも御前より学問も余計したつもりだ。見識も普通の人間より持っているとばかり今日《こんにち》まで考えていた。ところがあんな子供らしい事をつい口にしてしまった。まことに面目《めんぼく》ない。どうぞ兄を軽蔑《けいべつ》してくれるな」
「なぜです」
 自分は簡単なこの問を再び繰返した。
「なぜですとそう真面目《まじめ》に聞いてくれるな。ああおれは馬鹿だ」
 兄はこう云って手を出した。自分はすぐその手を握った。兄の手は冷たかった。自分の手も冷たかった。
「ただ御前の顔が少しばかり赤くなったからと云って、御前の言葉を疑ぐるなんて、まことに御前の人格に対して済まない事だ。どうぞ堪忍《かんにん》してくれ」
 自分は兄の気質が女に似て陰晴常なき天候のごとく変るのをよく承知していた。しかし一《ひ》と見識《けんしき》ある彼の特長として、自分にはそれが天真爛漫《てんしんらんまん》の子供らしく見えたり、または玉のように玲瓏《れいろう》な詩人らしく見えたりした。自分は彼を尊敬しつつも、どこか馬鹿にしやすいところのある男のように考えない訳に行かなかった。自分は彼の手を握ったまま「兄さん、今日は頭がどうかしているんですよ。そんな下らない事はもうこれぎりにしてそろそろ帰ろうじゃありませんか」と云った。

        二十

 兄は突然自分の手を放した。けれどもけっしてそこを動こうとしなかった。元の通り立ったまま何も云わずに自分を見下した。
「御前|他《ひと》の心が解るかい」と突然聞
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